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20240806 イラストエッセイ「私家版パンセ」0040 「死について」

 ギリシア神話では、「昼」は「夜」から生まれたとされます。
 「死」から「生」が生まれる、というのは死と再生の神話でもあります。
 カトリックの教会は基本的に墳墓だと思うのです。
 教会堂に死者を葬ることは初代教会からの伝統だったし、ローマ時代の教会は信徒の墓であるカタコンブを内包していました。
 しかし何より御堂にはイエスの御聖体が安置されている。つまり教会はイエスの墓なのです。
 カトリックの礼拝堂は死者の世界と繋がっています。その礼拝堂で死と復活の儀式であるミサや洗礼が行われるんですね。

 メキシコはカトリック国ですけれど、骸骨が好きなんですってね。街角には骸骨が満ちあふれているそうです。メキシコの画家、ポサダの戯画は全て骸骨が主人公です。

 死は我々に影のように寄り添う存在です。
 全ての人がそこへ行き、そこから生まれた。
 生物は一つの個体が永遠の命を持つという方向ではなく、新しい命にバトンをつなぐことによって存続する方法を選びました。個体の死を乗り越えて永遠の命を得ると言っても良いかもしれません。それにより、環境への適応や個体の劣化を防ぐことができるんです。

 明日死ぬかもしれないと思って今日を生きる。一期一会とはそういうことですね。
 死は人間の生を輝かせ、死を思うとき、人は与えられた日々に感謝し、他者に対して寛容になれると思います。
 日本は世界の国土の0・25パーセントを占めるにすぎない小さな国ですが、地震や津波などの災害は20パーセントを占めるとも言われています。
 諸行無常はそうした特性に根付いた文化なのかもしれません。

 ろころが現代の日本は極力、死の影を追い出そうとしています。
 自宅で息をひきとることはほとんどなくなり、死は病院に押し込められてしまいました。路上で人が死ねば、直ちにその痕跡はぬぐい去られます。
 コロナ禍の時もそうでした。「わたしたちは死なないために生まれてきたのではない」と、とある哲学者が言いましたけれど、誰も耳を貸そうとしませんでした。特に教育の現場では深刻で、元来社会的な生き物である人間がコミュニケーションを遮断された心の傷の大きさは計り知れません。
 今、日本はあらゆる死の可能性を追い出そうとやっきになっているように見えます。諸行無常のお国柄はすっかりなりを潜めてしまいました。
 別の角度から見ると、人間を成長させるのは知的、精神的、肉体的を問わず「冒険」だと思います。冒険とは自分の殻を打ち破ることに他ならないからです。
 現代日本は安心安全を重視するあまり、死を恐れるあまり、冒険しなくなったと言えなくもないと思います。長年教師をやってきたぼくの目から見ると、子供たちから冒険の機会を奪うことは、成長の機会を奪うことだと感じています。

 ぼくは死が排除された世界は健全ではないと思っています。時として我々は死者と対話をする必要があります。
 現代医療の最重要課題は「不老不死の研究」だそうです。富裕層を中心に、不死がほぼ実現するとも言われています。不死を実現しても事故死は防げません。死は今よりずっと耐え難いものになるでしょう。おそらく人間は冒険をしなくなるでしょう。それはきっと恐ろしく退屈な世界になるはずです。
 古代の人々は骸骨の絵を描き、その下にGnoti Sauton(グノーティ・サウトン)と書きました。「汝自信を知れ」という意味です。
 それは、人間は死すべき存在である、それを忘れるな、という意味です。

 お盆になりますね。
 ぼくが住んでいる新潟の田舎では、お墓が集落の中にあるんです。
 村人は手にやかんと花を持って、死者に会いにゆくのです。

中世ヨーロッパのモザイク 模写 「汝自身を知れ」とギリシア語で書かれています





私家版パンセとは

 ぼくは5年間のサラリーマン生活をした後、キリスト教主義の学校で30年間、英語を教えました。 たくさんの人と出会い、貴重な学びと経験を得ることができました。もちろん、本からも学び続け、考え続けて来ました。 そんな生活の中で、いくつかの言葉が残りました。そんな小さな思考の断片をご紹介したいと思います。 これらの言葉がほんの少しでも誰かの力になれたら幸いです。

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