カジュアル書き言葉における読点の可能性

 大井町にあるラーメン屋『越後つけ麺 維新』というお店に行ったときにこんな文言を見つけた。

句読点ラーメン

一番上の行を見ていただきたい。

当店の麺はコシヒカリの米粉の特性を活かすために作られており熱盛より、冷たい麺が絶対おすすめです!

 なんだか違和感のある文に見えないだろうか。と言いたいところだが、そういう話をする前に言っておかなければならないことがある。私は別にこのラーメン屋さんの言葉遣いが間違っているだなんて言うつもりは一切ない。日本語の間違いを指摘していると誤読されても困るのでさらにおまけで言っておくと、私は間違った言葉などこの世に存在しないというスタンスでいる。そういう誤読界隈の人間がこれを読まないことを祈るばかりだが。あと、このラーメン屋さん割と美味しかったので機会あったら是非どうぞ。

 さて本題に戻ろう。違和感の正体は、題名の通り読点にある。読点のその位置がこの文の違和感を生んでいるのである。違和感のない文にするとすれば以下のようになる。

当店の麺はコシヒカリの米粉の特性を活かすために作られており、熱盛より冷たい麺が絶対おすすめです!

 日本語母語話者的感覚では多分こうだろう。と、感覚だけで述べていても仕方がないので、読点の使用箇所を示したガイドライン的なサイトを示す。リンクはこちらから。

 さて、ここに示されている読点の使う箇所は以下の通り。

①文を区切る場所
例)当時の委員長、速水さんが言った。

②主語が長いときの主語のあと
適切と示された例)新刊の爆発的な売れ行きでお茶の間の話題となった緑川さんだが、
不適と示された例)新刊の爆発的な売れ行きでお茶の間の話題となった、緑川さんだが、

③修飾関係を明確にするとき
例)にわに、はにわにわとりがいる。(×庭には二羽ニワトリがいる)(庭に埴輪ニワトリがいる)

④名詞を並列で書くとき
例)山も、川も、谷も全てが美しい。

 このガイドラインと照らし合わせたとき、維新の文言は①の用法に違反しているとみることができる。「当店の麺はコシヒカリの米粉の特性を活かすために作られており、熱盛より冷たい麺が絶対おすすめです!」と表記した場合であれば、文の読点以前は冷たい麺がオススメである理由を述べているのに対し、読点以降は比較を用いて冷たい麺を勧めているという構造を持つと言える。しかし、「当店の麺はコシヒカリの米粉の特性を活かすために作られており熱盛より、冷たい麺が絶対おすすめです!」と表記した場合、読点以前と以降での区切りが不自然となってしまうように感じられてしまう。読点以前では冷たい麺がオススメである理由+冷たい麺と比較されるもの、読点以降ではただ冷たい麺をオススメするという内容というようにイマイチ文にまとまりがないように見えてしまう。

 と、ここまで見てこの表記は間違いであるというので片付けてしまうのであれば容易いがそんな思考停止はしない。先に示したガイドラインも、国が定めたものでもなんでもない何の効力もないものである。実際にWikipediaにも「日本語では読点をどこに打つかについての規範が明確でなく、筆者の裁量が大きいと言える」という文言もある(Wikipediaの参考文献としての信憑性は今回は考えないこととする)。では、一見すると不自然に見える位置に読点を打つことの意味はなんなのか。予測される効果を考えてみたい。

 結論としては、強調の目的で使用されたものであろうと考える。まあそりゃ「冷たい麺」「絶対おすすめ」が赤文字になっている時点でお察しといえばお察しではあるのだが。

 だとしても別に赤文字にだけしておけば十分だろとも思うだろう。だがそこは筆者の裁量。この文言を記した人の裁量である。書き手にとってはそこが文の区切り位置だったのであろう。理由はいいからとりあえずおすすめであることだけは最低限わかっていてほしい。文を細かく読む余裕があればその理由と、一応熱盛もできるんですけどねえ感が出ればまあいいかな。コシヒカリの米粉とか、熱盛が云々みたいな情報は別に後で見てくれたらいいから。とにかく冷たい麺食べてみてよおすすめだから。こんな意図があったのかもしれない。そんなこと書いてはいないので妄想にすぎないが。

 正式な報告書でもお上に提出する文でもなんでもない、ただ単に冷たい麺を勧めたいというだけの文ならば何しようが自由だ。また、先に引用したガイドラインに文章を区切る場所で読点を用いることになるという記述がある。これも拡大解釈してしまえば、筆者にとって文章を区切る位置だと思うところに入れてしまえばいいということにもなるかもしれない。自分で言っておいてだいぶ極論ではあるが。

 維新さんのおすすめ書きの読点の使い方は、読点以降を強調し、読点以前はその補足情報を伝えるという用法であった。この用法は日本語文章の新たな可能性を引き出してくれるものであった。このような強調での使い方は少なくとも現段階では許容度は高くないであろうが、後の時代にこの感覚がどう変わっていくのかちょっと楽しみでもある。もしかしたら更に変化が生まれて新たな用法として定着するかもしれない。くれぐれも新たな日本語の可能性を闇雲につぶさないよう。

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