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妄想する言語

 神、幽霊、死後の世界、各種占い、くだらなさ過ぎて嫌いだ。フィクションとしてそういう存在を楽しむのは大好きだが、現実に存在すると本気で押しつけてくる人とはおそらく仲良くなれない。自分の信条として勝手に持っていてくれる分には別に気にしないが。

 神、幽霊、死後の世界、各種占い…そんな各種オカルトが存在しないのは自明なのだが、どうしてそんなものを生み出せるようになったのか考えてみると結構面白い。私は言語学の人間なので、言語との関連からそういうことを考えてみたい。

 人間の言語と比べられるものといえば、動物の鳴き声だ。どちらも基本的に音を発する(手話は音声のない言語だが)もので、意思疎通のための道具だ。でもこれらには決定的な違いがある。時間と虚偽だ。

 動物の鳴き声は現在のことしか発することができない。ワンワン(腹減った)ガオー(タチサレ…タチサレ…)ミーンミンミンミンミン(恋虫募集中)みたいな。ワンワン(明日の晩一杯どうですか)ガオー(さっきのやつめっちゃ怖かったんやけど)ミーンミンミンミンミン(さっきの子めっちゃ可愛かった)とはならない。動物の鳴き声は現在のことしか発さない。対する人間は、「腹減った」「あの店めっちゃ美味かったで」「明日暇やな」と過去現在未来全部のことについて言えてしまうわけである。過去も未来もあれこれ言えてしまうということは、思考能力として自分の知らない過去も不確定な未来も考えることができるのである。

 そして虚偽。動物の鳴き声による情報が「嘘でした~ドッキリ大成功~」みたいなことはない。誤認識とかそういうのは置いておいてだ。目の前の事実に対してしか使えない。人間は平気で嘘をつく。良いとも悪いとも言うつもりはないが、めっちゃ嘘をつく。試しに嘘をついてみよう。私は今コンゴにいる。嘘だ。私は今日本にいるからだ。嘘というのは、事実でないことだ。事実でないことを言えるということは、事実以外のことも色々と想像できるということになる。

 こんな感じに時間や真偽を超えて思考ができるってのは結構めんどくさいものだ。考える必要のないことを考えること、存在しない存在を考えることだってできてしまうのだ。想像してください。西暦3600年の世界では三つ編みで作った角刈りヘアー大流行しています。できちゃうんですよ、存在しないものの存在を想像することが。西暦3600年の世界なんて誰にもわからないはずだし、三つ編みで作った角刈りってとても流行するとは思えないし、そもそもそんなことをした人間なんて過去にいたのだろうか。こんなありもしないことを容易く想像できてしまうのである。こんなくだらないことならいくら考えても害はないのだが、幸か不幸か人間の脳は発達した。例えば死への恐怖は動物的本能なのであろうが、人間にはそこに死んだらどうなるんだろうという思考がくっついてくる。死んだら地獄の閻魔様に裁かれて、悪い事ばかりしていたら地獄行きかもしれないみたいな。真っ暗闇でなんかいる気がするんだけど、もしかしたら死んでも死にきれずこの世に未練を残した人かもしれないみたいな。いやそんなことあるかいなと。

 言語として現れているものは須らく発話者が思考できていることと言ってもいい。存在し得ないものを勝手に思考してしまって、それがいつの間にか信じるか信じないかの次元にまできてしまっている。やはり人間の脳はやたらに発達しすぎている。いらないことばかり考えてしまっている。全知全能で死後我々を裁く神なんて存在しないし、生前の未練が化けて出てくることなんて存在しないし、手相見たりペラペラッとカードめくったりするだけでその人のことがわかるわけがない。進化が必ずしもいい結果を生むわけではないってのがよくわかる。まあ、その想像力のおかげで享受できるメリットも数えきれないほどあるんだけどね。あーあ、いっぺん人類滅ばねえかな。

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