小森胤樹(フォレスターズ合同会社 郡上割り箸 森林総合監理士)

2002年、大阪から林業をするために岐阜県郡上市八幡町に移住。 チェンソーをもって山に…

小森胤樹(フォレスターズ合同会社 郡上割り箸 森林総合監理士)

2002年、大阪から林業をするために岐阜県郡上市八幡町に移住。 チェンソーをもって山に入る現場作業員から始ました。 現在、地域の森林管理の仕事をベースに、森や木、エネルギーに関わる仕事をしています。

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市町村をサポートするフォレスターの必要性(国民森林会議 機関誌国民と森林 153号 寄稿) 

 林業に転職して21 年、現場で働きながら体験してきた林業現場の変化と自分に何が出来るのか、何をすべきなのか考えてきたことを振り返り ながらまとめてみたいと思います。 林業への転職  私は1971 年(昭和46 年)生まれの団塊のジュニア世代です。40 代になった頃から1970 年代生まれを強く意識するようになりました。1970 年代は公害問題が大きな社会課題でした。1970 年の公害国会を受けて、1971 年は、施政方針演説にて環境庁の設置が決まった年でもありました。 私

    • プラ製ストローを変える前に割り箸を国産材割り箸にその9

       その8を書いたのが、2019年2月。東京オリンピックで国産割り箸が使われることが仕様書に書いてあるという話で終わっていました。 あれから、3年。コロナになる前でした。この3年間の変化や状況を綴ることから、国産材割り箸の今について、お伝えしようと思います。  コロナ前、割り箸の年間消費量は170億膳前後でした。2005年ごろのピーク時は250億膳。それから3割消費量が減りました。  そして、コロナの中、現在150億膳ほどになっています。割り箸を使ているお店、単純に20億食分が

      • 団塊の世代ジュニアの少年時代(本編6)

         このシリーズの最後に、私の強烈に印象に残っているキャンプの話を書き留めておきたいと思う。  あれは、小学校5年生の冬休みであった。2学期が終わった12月25日(確か)から2泊3日で、土屋先生にアイナメ釣りのキャンプに行かないかと誘われ、友達二人と行くことになった。その友人の名前は伊東順。 目的地は、大多府島。兵庫県から岡山に入ってすぐ、日生諸島の一番外側の島。 初めてではなく、野外クラブのキャンプで来たことがある島(と記憶している)。 今回は、団体で行くのではなく、土屋先

        • 団塊の世代ジュニアの少年時代(本編5)

           コロナ禍の中、8月1,2日に二年ぶりに土屋先生と小学校の同級生たち(とその他)とキャンプに行った。昨年は大雨で中止となったため。  このキャンプは何年前から始まったのか覚えていないが、年に一度、男だけでやるキャンプ。自分の子供は連れてきてもいいが奥さんはダメという条件。なので、野郎ばかりの第三者から見たら怪しい団体にみえるだろう。  大阪にいたころは、この同級生メンバーと月に一回はキャンプに行っていたが(一年中)、それぞれ転勤や家族が出来て、自由が利かなくなり疎遠になってい

        市町村をサポートするフォレスターの必要性(国民森林会議 機関誌国民と森林 153号 寄稿) 

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        • プラ製ストローを変える前に割り箸を国産材割り箸に
          10本
        • 団塊の世代ジュニアの少年時代
          10本
        • 八幡小水力電気株式会社について
          6本

        記事

          八幡水力発電所について(番外:和良水力発電)

           ⑤にて、追記とい形で和良水力電気㈱の情報を付け加えました。 というのも、昨日(4月22日)に和良おこし協議会の加藤真司さんから情報をもらい、水力発電の跡地に連れて行ってもらいました(ちゃんと感染予防して)。番外編として、アップします。それと、電気年鑑に記載無いと書いてしまいましたが、見落としでして、189コマにありました(駒田さんより指摘)。失礼しました。 和良村史(近代百年版)から、  中島金次郎・後藤庄松、大沢茂一郎、石原興一郎、大沢廣助らによって、会社設立の計画が進

          八幡水力発電所について(番外:和良水力発電)

          八幡水力電気株式会社について⑤

          郡上市内に当時あった電気事業者の紹介の続きです。  上ノ保川水力電気㈱は、現在の大和町内にありました。発電所は電気年鑑の文字が潰れているので判別難しいのですが、当時の西川村名皿部と川◇という地名の2か所に発電所がありました。  郡上のお年寄りは、八幡以北の長良川のことを上ノ保川と呼びます。上ノ保川と吉田川が合わさって、長良川と昔は呼んでいました。そのため、長良川鉄道の八幡以北の鉄橋の名前には、上ノ保川No◇と記載されています。  大和町史によると、大正12年に白鳥電気と合併

          八幡水力電気株式会社について④

          乙姫滝の水力だけでは、雨量の多い時年間1~1か月半しか発電できず、 石炭火力の動力を入れて、運用されました。 「岐阜県史 史料編 近代3 第3章 鉱工業の振興 第7節 電灯」 P.749〜752より抜粋の続きから  かかる不完全なる機械を運転しながら、開業後四十年の拡張まで九ヶ年間、初めの二ヶ年を除いては、毎回年五分つ、の利益を収めたりしとは、殊勝といふべし ”五分”とあるので、年5%の利益を収めたようです。水野氏の努力の結果なのでしょう。  時勢も漸く進歩し、各地の

          八幡水力電気株式会社について③

          大岡氏について。  かくて、大岡氏の尽力にて工事間もなく落成して試験送電をなせるに、機械の不良なりしか、据付の不完全なりしか、発電所内に線香の如き火光を発するのみて、二三日試験せるも容易に電灯らしき光力を発せず、大岡氏の曰わるるには、水車にリングベルトを用ひしかば、其為めならんとて色々工夫を凝したるも面白からず、其翌朝早く大岡氏の旅宿を尋ねて、更に意見を聞かんとせるに、宿屋の女中曰く、大岡さまは今朝早く立ちになりましたと、  地元の技術者が乙姫滝での発電は難しいと言ったが

          八幡水力電気株式会社について②

          さて、2回目。 岐阜県史 史料編 近代3 第3章 鉱工業の振興 第7節 電灯」 P.749〜752より抜粋。 乙姫滝の発電所ができることになる顛末が書かれています。  此鉄道(明治廿九年頃金城鉄道=越美南線北線のこと)の設計は、澁沢、大倉等実業家の賛成得て、工学博士渡邊嘉一氏其局に当り、沿線の町村民も大に意気込みて奔走し、金沢市の有力家も共に力を添へたれども、中々実行さるる機運に致らず、水野氏此用向にて金沢に出張せる時、同市有志家が電灯経営の計画あるを聞き込みて、氏も郷里に

          八幡水力電気株式会社について①

           口明方地区の山裾に、昔の小水力発電の発電機が放置してあることをFBにて、ご報告しました。保存するための活動をしていこうと呼びかけたわけですが、駒田さんより、メッセージを頂きました。  以下、メッセージの冒頭  私は先祖調査の一つとして、「八幡水力電気株式会社」について、ネット(SNS含む)、文献を通して調べておりました。  調べている中、本年3月30日の小森様の投稿を拝見し、この2020年の今、八幡水力電気株式会社についてご関心のある方がいる事に驚き、居ても立っても居られず

          親父のこと(画家としての親父)

          先日、東京に出張していたとき、たまたま親父も東京に出てきていたので、晩飯一緒にどう?ということで、上野で飲んだ。 このご時世なので、金曜日の晩だというのにお店には客は少ない。 今年、80(昭和15年生まれ)になった親父なので、こんな時に東京に出てこなくてもいいのにということなんだが(自宅は大阪にある)、光陽会という公募美術団体に所属していて、役をやっているらしく、近く開かれる絵画展の準備のために出てこなくてはならないということらしい。  親父はサラリーマンをしていたころから

          団塊の世代ジュニアの少年時代(本編4)

          3回目からはや3ヶ月が経ってしまった。 続きを。 4回目は釣りについて書き残しておきたい。 私が住んでいたのは、吹田市。小学生の男子は釣りに凝る割合が多かった。 自宅から、神崎川や淀川に自転車でいける距離だったので、日曜日に朝早くから、出かけていた。淀川は自転車でも1時間以上かかったのではなかっただろうか。 淀川にはわんどという川沿いに池がいくつもあり、本流ではなく、そのような池で鯉やふな、ブラックバスなどを釣っていた。 まだ、家から近い神崎川で朝7時ぐらいから釣りを始める。

          団塊の世代ジュニアの少年時代(本編3)

          ちょっと間が空いてしまった。書きたくなったので続きを。  小学4年生で、野生クラブというクラブに入った私は、キャンプに目覚めていく。 5年生になったころ、色々キャンプ道具が欲しくなってくる。大阪にはIBS石井スポーツかロッジという登山道具の店があった。5年生の私は親に頼んで一緒に行ってもらい、60Lのザックが欲しいと店員さんに伝えた。店員さんは小学校5年生に60Lはデカすぎると45Lのザックを提案。 デカいのが欲しかったのだがしぶしぶそれにした記憶がある。当時はまだフレームザ

          団塊の世代ジュニアの少年時代(本編2)

           こんな話を記録しておこうと思うようになったのも、自分の子供が同じ年ぐらいにとなったがどうも状況が違うと感じるようになったから。また、自分自身が世間で”普通”と言われるような仕事を選んできていない状況において、なぜこんな道を選ぶことになったのかを最近考えるようになってきたということもある。まあ、年を取ったということだ。    今思うと、土屋先生の授業はカリキュラムに則ってやっていたのかと思う。 ・図工の時間、写生をするとなると、午前中全部使って、学校外に出ていって絵を書いて

          団塊の世代ジュニアの少年時代(本編)

           私が自然に興味がを持つようになったきっかけはなんなのかと聞かれると、小学校3年生の頃の話からはじめないといけない。  大阪府吹田市という社会科で習うところの大阪の衛星都市の吹田で少年時代を過ごした。吹田市立山手小学校が私の母校。我々世代の多くは小学校時代に新しく小学校ができて、学校が二つに分かれるというのを経験していないだろうか。山手小も3年生に上がるときに片山小学校ができて、8クラスから4クラスに減った。  4年生に上がるとき、担任の先生が変わった。上田先生から土屋誠一先

          団塊の世代ジュニアの少年時代(残酷編2)

           ロケット花火の話をしたら、爆竹の話をしないわけにはいかない。爆竹といえば、中国の春節祭の映像で見るぐらいになった。田舎でもいっとき、猿を追い払うのに爆竹を使っていたようだが、彼らもアホではないので、慣れれば逃げなくなる。獣害対策は、初めは効果があるが、学習すると気にしなくなってしまう。  18年前、郡上へ移住してきてから、地域の子供達が爆竹で遊んでいるのを見たことがない。自分の子供が、ここで書いているような遊びをしだした年齢に達し、そのような遊びをしないことに気がつく。火遊