八幡水力発電所について(番外:和良水力発電)

 ⑤にて、追記とい形で和良水力電気㈱の情報を付け加えました。
というのも、昨日(4月22日)に和良おこし協議会の加藤真司さんから情報をもらい、水力発電の跡地に連れて行ってもらいました(ちゃんと感染予防して)。番外編として、アップします。それと、電気年鑑に記載無いと書いてしまいましたが、見落としでして、189コマにありました(駒田さんより指摘)。失礼しました。

和良村史(近代百年版)から、
 中島金次郎・後藤庄松、大沢茂一郎、石原興一郎、大沢廣助らによって、会社設立の計画が進められ、資本金は村内一般からの投資を募った。
 大正6年、和良水力発電㈱が設立され、初代社長に中島金次郎が就任した。方須地内、字宮上の和良川岸に発電所の位置を決定し、大正7年に建設工事に着工した。
 発電に使用される水は、安郷野新田のクラ渕と形原の中間に堰を設けて水をせき止め、ここから492メートルの水路を建設して導水する計画でである。
 建設工事にセメントが使用されたが一般に普及していない時代で、砂・砂利との混合も儒油分に分からなかったと言われている。そのため数年を経て水路等の破損がおびただしく漏水がひどくなり、補強のための再工事の施行を余儀なくされた。
 着工したものの資金面で行きづまり、その後何度か増資を募りながら苦心の末、大正9年10月に一応工事は完成した。着工以来2ヵ年の歳月を要し、出力25キロワットの水路式水力発電所の誕生であった。
 出力25キロワットと言えは、現在小中企業でも使用する程度の電力であり、最近建設されるダム式発電の十万キロワット単位の発電所とみれば、比較にならないちっちゃなものであるが、当時は画期的な大事業で合った。
 大正9年10月、送電が開始されるに及んで、その年、方須、安郷野、土京、下洞、法師丸、下沢、上沢、それに宮地の一部の区域へ送電した。
 送電に使用された電柱は、会社発足当時、各戸から栗、杉材の素材が提供された。翌10年には、宮地の残りの区域、野尻、宮代、鹿倉へと送電された。
 このように年次を追って、送電は全村へ行きわたり、大正12年には美山、まで大正14年になると、洲河まで送電された。

和良水力電気5

             当時の送電工事の様子

現在、発電所跡はどうなっているかというと、

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落差はほとんどありません。
現在の用水路の水量で、本当に落差なく、25KW出ていたのだろうか。

 

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