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生誕10000日目に10000字で綴る「僕のこと」

僕は今、京都でLaughterというコーヒーショップを運営しています。

1997年1月11日に生まれた僕は、今日で生誕10000日目を迎えました!
何が起こるわけでもないですが、ちょっと嬉しい気分になりますよね(笑)

※生年月日を入力するだけで、生誕10000日、20000日、30000日を調べられるサイトがあるので気になる方は調べてみては?

一生に一度の特別な日に何かしたいなぁと思い、「10000字ぴったりのnote記事を書こう!」と今回の企画に至りました。
自分の人生を彩ってきたものたちと一緒に人生を振り返っていこうと思います。


・幼少期と鉄道

1997年1月愛知県に生まれた僕の最初の趣味は鉄道でした。
物心付いたときにはすでにかなり熱中していて、母親によると近所の電車が見える場所に連れていくと2時間以上その場を離れなかったそうです。
「鉄道を好きになったきっかけは?」と聞かれてもはっきりと答えられないので、無意識のうちにハマっていったのでしょう。

お店を初めてから地域のお母さんたちとお話する機会も増えましたが、男の子の場合、電車や車など乗り物を好きになる子は多いようです。
ただ、大きくなるにつれて戦隊ヒーローやアニメなどに趣味が移り変わっていくそうです。
そんな中で、僕は鉄道への愛が冷めないまま育っていきました。
引き換えに、アニメや戦隊ヒーローに全く触れないことになりますが(笑)

名古屋を走るのは、赤い車体が特徴の名古屋鉄道、通称「名鉄」
真っ赤な電車を無邪気に追いかけ回していた幼少期でした。

・野球との出会い

小学校入学後、ハマったものは野球でした。これも、何がきっかけというのは覚えていなくて、気付いたら近所の公園で友達と野球をしていました。

学校から帰ってきたら、ちゃちゃっと宿題を済ませてバットとグローブを持って公園に向かう。そんな毎日でした。プロ野球選手より試合していたと思います(笑)
本当なら両チーム9人ずつの18人いないと成立しないのが野球ですが、そんなに集められるわけないので4人くらいで頑張って試合していました。

飛んだ打球がアウトかセーフか。今のヒットで1点入ったかどうか。時々ケンカしながらも少ない人数で工夫してよくやっていたなぁと。

そして、自分がやるだけでなく野球を見始めたのもこの頃。
名古屋のまちで生まれ育った僕は、何の疑問を抱く事もなくドラゴンズファンになっていました。
当時のドラゴンズは落合博満監督のもと、黄金期を迎えていました。
毎年優勝争いを繰り広げるチームのファンクラブに入会し、年間10回以上はナゴヤドームに通っていました。

野球と同時に好きになったのは「ラジオ」
地上波の野球中継は試合終了まで放送されないことがほとんどで、テレビ中継が終わるとラジオで続きを聴いていました。いつの間にか中継が終わってもラジオを聴き続けるように。受験期はラジオを流しながら勉強し、寝るときは布団の中でオールナイトニッポンを聴きながらクスクス笑っていました。
好きが高じて、今では京都のコミュニティFM局でパーソナリティーを務めています。


知らない情報や音楽など、ラジオが僕の世界を広げてくれました。

小学校入学から数多の試合を戦い抜いた僕は、4年生で満を持して野球部に入部します。
(学校のルールで4年生からしか部活動への入部が出来なかった)
3年間の練習の成果もあってか、入部してすぐから一軍メンバーの練習に参加し、毎晩日が暮れるまでボールを追いかけていました。

最初の2年間は中々試合に出られませんでしたが、6年生でレギュラーに定着。
バッティングは苦手でしたが、守備は得意な方だったので「9番ファースト」のレギュラーを掴み取り、夏の大会でもメンバー入りしました。当時は夏の大会前に地元紙が各校のメンバーが書かれた特別紙を発行しており、新聞に掲載された自分の名前を見つけて嬉しかったことを今でも覚えています。

夏の大会ではヒットを放って、チームも一つ勝つことが出来ました。
また、その大会と別の大会の試合が重なってしまうという緊急事態が発生。
急きょもう1チーム組まなければならなくなり、その試合は全く練習していなかったキャッチャーで出場したのも良い思い出です。

「将来の夢は野球選手!」と全国の野球少年と同じく大きな夢を抱いていました。
しかし、それが打ち砕かれたのは4年生の時。
部活に入る前から公園で一緒に野球をしていたH君という一つ年上の子がいました。
彼の実力は僕の学区内では圧倒的で、公園野球も彼をメンバーにゲットできるかで勝敗が決まるほどでした。
そんなH君は一年早く野球部へ。部でも頭角を現し4年生ながらピッチャーも務めていました。しかし、ある試合で彼がボコボコに打ち込まれたのを見て、「世の中にはH君以上の実力の子がわんさかいるんだ...」と絶望しました。

また、顧問の先生が実力主義の方で、エラーやミスをするとかなり叱られました。
次第に怒られるのが怖くなって、練習や試合で「打球飛んでくるな」と思うようになりました。公園で無邪気に始めたボール遊びが、勝利を求められることで純粋に楽しめなくなっていました。

「どう頑張ったってプロ野球選手にはなれない」
子供ながらに悟った僕は、小学校卒業と共に野球を辞めました。
大会のレギュラーメンバーは僕以外全員が中学校でも野球部に入部したのでかなり驚かれましたが、僕はすがすがしい気持ちで野球と別れを告げ、「今後は純粋に見る野球楽しもう」と決意したのでした。

・「天てれ」に培われた「表現者への憧れ」

小学校に入学し、野球と共に好きになったのはNHKの教育番組「天才てれびくんMAX」
「てれび戦士」と呼ばれる、小学4年生くらいから中学3年生くらいまでの子役タレントたちが様々な企画などにチャレンジするという番組です。

放送は平日の夕方6時20分から。公園の野球を天てれに間に合うように切り上げ、毎晩楽しみに見ていました。
学校には天てれ好きの友達が何人かいて、前日の放送について感想を言い合うのが恒例行事になっていました。小学生の僕にとって、テレビの中で躍動する同年代のてれび戦士たちはスターだったし、本気で自分もてれび戦士になりたいと思った時期もありました。

それは、今の自分にも通ずる「表現者への憧れ」でした。
学芸会や運動会など人前に出る行事が好きで、自分が何かをすることで場の雰囲気を変えたり、盛り上げたり出来ることに子供ながら大きな快感を抱いていました。

テレビ越しのてれび戦士たちは僕にとって最初の「表現者」との出会いでもありました。
歌や踊り、演技、時には一輪車やダブルダッチに挑戦するてれび戦士の姿は純粋にカッコ良かったし、学校で辛いことがあっても、天てれを見れば元気になれる。そんな風に自分の行動で人の心を少しでも明るい方に導ける人たちってすごいなと。自分もそんな存在になりたいと思っていました。

・小学生にして旅の魅力を知る

鉄道への愛はこの頃も変わらず。鉄道会社が主催するイベントに参加したり、親が持っていたカメラで電車を撮影したりしていました。
社会の授業で貰った地図帳を穴が空くほど読み込み、近所の図書館では時刻表を見て空想旅行を楽しんでいました。
4年生のある日、鉄道好きの友人から「青春18きっぷで旅行に行かないか?」と誘われます。一日2000円ちょっとで全国のJR線が乗り放題になる夢の切符で、長野への旅行を提案されます。しかし、僕らはまだ4年生。さすがに怒られるかなと、恐る恐る親に許可をもらおうとするとあっさりOK。10歳の子供二人での壮大な旅は無事に終わり、旅の魅力を存分に味わうことになります。
それからというもの、定期的に色んな場所へ旅に出かけるようになりました。

今はなきテレビカーに乗ろうと大阪を訪れたこともありました。

今でも休みがあればふらっと東京などに行くことがあるし、一人旅も全然苦ではありません。長らくにわたって僕の人生を彩ることになる旅の原点でした。

・とにかく楽しい中学時代

中学3年間はとにかく楽しい時間でした。
隣の小学校と合同になるので新しい友達も増えました。
野球部を辞めた僕は、体験入部で楽しかった卓球部に入部。部の仲間は皆いいやつで特段強いわけじゃなかったけど、謎の団結力があって毎日部活動に行くのが楽しみでした。

毎日夜遅くまで練習して、帰り道でも「まだ喋るのか!」と思うくらい喋る。
週の半分は自分たちで朝練の日を作って、7時半くらいからピンポン玉を打っていました。

顧問の先生にもとてもお世話になりました。
一、二年と顧問だったO先生は明るいキャラクターで部を盛り上げてくれました。
たまには面白いことしよう!と家庭科室を貸切ってうどん作りをしたことも。
M先生は顧問だけでなく、3年生では担任にもなりました。
「君は面白い!」といつも言ってくれて、授業でもよくいじってもらいました。M先生はその頃教員になりたてだったので、時に友達のように仲良くさせてもらいました。

そのM先生と共に担任を務めていたのがN先生。
N先生はベテラン音楽教諭で、授業の時の姿を見てめちゃくちゃ怖い先生だと思っていました。でも、担任になってみるとめちゃくちゃお茶目な先生で、ベテランのN先生と若いM先生の絶妙なバランスでクラスを引っ張ってくれました。

最もクラスが団結したのは合唱コンクール。N先生のためにもどうしても優勝したくて毎日皆で居残り練習をしました。直前までのリハで優勝は僕たち3年3組と3年7組の一騎打ちと言われていました。迎えた本番、結果は惜しくも2位。
それでも、クラスが一つになった時間でした。
先生にも友人にも恵まれた中学時代。とにかく、毎日無邪気に学校に通う日々でした。

・中学生にして、「過酷な旅」の面白さを知る

中学時代に知ったのは小学校時代とはまた違う旅の面白さでした。
発端は部活の帰り道。「今度自転車で行けるとまで行ってみようぜ!」と盛り上がり、せっかくなら分かりやすい目標にしようと、県境を超えることにチャレンジ。

第一回は三重県長島駅まで。第二回は岐阜県金華山までの旅に出ました。
部活の仲間5人ほどで丸一日を掛けての旅でしたが、達成感と爽快感がありました。

どちらも片道20キロ少々の旅で、もう少し遠くにチャレンジしたい!と思った僕らは、中学の卒業旅行で片道100キロ以上先の京都までの自転車旅を考案します。

さすがに今回ばかりは断られるだろうと、恐る恐る母親に話をするとあっさりOK。
「頑張って行ってこい!」と背中を押されました。
結局仲間たちの中で京都行きの許可が出たのは僕とT君の二人だけ。

卒業を控えた3月。二人だけの長い戦いが始まりました。
全行程2泊3日。初日は京都、二日目は滋賀県草津の宿を押さえました。

初日は順調なスタートを切るも、あまりの興奮で各スポットで写真を撮るなどで時間を取り過ぎたのと、途中でT君が突如腹痛に襲われペースダウン。
夕方に近づくと体力も底をついてきます。開始から13時間経った午後7時。名古屋から120キロほど、京都まではあと20キロほどの滋賀県石山駅で無念のリタイア。
京都まではあと一歩でしたが、ここから県境は山道が続くこともあり、安全第一で断念。
石山駅の駐輪場に自転車を停め、新快速で京都駅まで向かったのでした。

京都市内のゲストハウスで一夜を過ごし、二日目は清水寺等を観光。電車で石山に戻り、草津までのわずか9キロほどの道のりを漕いで終了。疲労はマックスで泥のように眠りました。

3日目も早朝に出発。いかんせん100キロ以上を残しています。
しかし、これが3日間自転車を漕ぎ続けた成果なのか。体力にも余裕があり、日が暮れる前に名古屋に戻ってきました。

とにかく楽しかった中学生活の集大成を見事に飾ることが出来ました。

・水が合わなかった高校生活と水曜どうでしょう

高校進学にあたり、中学校が楽しかったからこそ、自分の中学からは誰もいかないような高校に行きたいと思い、自転車で15分ほどの場所にも高校があるにも関わらず、電車と徒歩で片道1時間かかる高校に進学しました。

またゼロから楽しい人間関係を築いていきたい!そう思っての事でしたが、上手くはいきません。高校全体の雰囲気に何となく水が合わなかったのです。いじめられていたわけではなく、友達もいましたが、中学時代のようなワクワク感は全くありませんでした。

念願の電車通学は、毎日襲い掛かる苦痛へと変わりました。
「どうにかしてこの状況から抜け出す方法はないか...」
悶々とした日々を送っていました。

そんな時に生きる希望となったのは「水曜どうでしょう」
北海道生まれのローカル番組で、まだ大学生だった大泉洋さんが出演していました。

演者とスタッフ、男4人があてもない旅に出ているだけなのに、これが何故か面白い。
ほぼ毎日のように水曜どうでしょうを見て笑っていました。
高校時代なんて学校くらいしか社会と関わるものはありません。
高校生活が面白くなかった僕にとって、それは人生が面白くないのと同じこと。

変わり映えのない日々に彩りを加えてくれたのが水曜どうでしょうでした。
どんなに落ち込んだ時も、水曜どうでしょうを見れば笑顔になりました。
またしても、「表現者」に救われた瞬間でした。

・何かを変えたかった

不完全燃焼のまま迎えた高校1年の冬。教室の掲示板に張られた一枚のチラシが人生のターニングポイントへと引き寄せます。
「アメリカ・短期留学プログラム・3週間・参加費無料」
「高校生外交官」と名付けられたそのプログラムは、3週間アメリカに渡り、美術館や国連本部を巡るツアー、ホームステイ、そして最後は参加者一人一人が10日間外国人パートナーとコンビを組み、様々なアクティビティにチャレンジするというものでした。
異国に行ける!との高揚感はもちろんですが、何よりこのプログラム、全国の高校生40人が選考され共にアメリカに行くというところに僕は惹かれました。
「ここに参加すれば何かきっかけが掴めるかもしれない...」
迷わず応募することにしました。しかし、応募用紙には英検やTOEICの点数を書く欄が。
何も受けたことが無い僕は書くことがありません。とりあえず、他の項目はしっかり埋めて書類選考の結果を待ちます。

すると、何と書類選考を通過し東京で行われる最終選考に残ったのです!
絶対に落ちると思っていたので、この段階でもう大喜び。最終面接は東京だったんですが、そこまでの交通費もなんと運営元が負担してくださいました。

東京旅行の気分で最終選考に向かいました。
最終選考は簡単な英語テストとグループワーク。最後に高校生2名と面接官3名位による面接でした。
面接は一組ずつ順番に行うのですが、時間の関係で東京から帰る時間が掛かる子からの面接でした。
東京から名古屋は距離はあるものの、新幹線に乗っちゃえば2時間弱。
飛行機を使う子や関東でも距離がある子に比べればかなり楽なので、面接も後ろの方でした。

実はこの最終面接、男女20人ずつの40人で一部屋に集められて行われていたのですが...
(最終面接は二日間あり、それぞれ40人ずつの80人が最終面接に進んでいた)
最初に男子、女子それぞれで5人チーム4つに振り分けられていて、面接時間まで他チームと交流する時間はほとんどありませんでした。
「せっかく東京まで来たし、友達の一人でも作って帰りたいよなぁ」
「そういえば女子と全然喋れてないやん!」
そんな会話から、「面接の待ち時間、各テーブル回ろうぜ!」と何人かで盛り上がり、各テーブルに声を掛けて回りました。軽いナンパです(笑)

そこで、何人かとは仲良くなりあっという間に面接時間に。
面接はK君という男の子とペアで臨みました。

滞りなく面接は進み、
「最後に何かありますか?」と聞かれ、どちらからともなくスイッチが入った僕とK君はそこから自分がなぜ参加したいか?という最終アピールを始めたのです。

K君が喋り終わると「次は僕が」と。僕がしゃべり終わると「ちょっと補足して良いですか?」と今度はK君が喋るみたいなことが3回くらい続きました。
「もう二人の熱意は伝わったので...」と面接は終了。
K君は岐阜の子で新幹線も一緒だったので、名古屋駅で晩御飯を食べ、再会を誓い解散。

面接で100%出し切り、もう悔いはないと晴々とした気持ちになっていました。

その数日後自宅に合格通知が届きました。
今振り返れば、単純な英語力ではほとんどアピールできていなかったと思います。
ただ、今この瞬間に転がっているチャンスを何とかもぎ取ろうという姿を評価していただけたのかなと思っています。

3週間で感じたのは「世界を広げるのは自分次第だ」ということ。
全国の高校生、そして世界の同世代の仲間たちと時間を過ごす中で、「高校の外にもこんな世界が広がっているんだ」と実感したのです。

自分の人生を構成するのはなにも高校生活だけではない。高校という一つの枠にとらわれることなく、好奇心に身を任せ自らの手で世界を広げることだって出来るじゃないかと。

「高校生活以外の経験をしてみたい」そんな思いから、帰国後は高校生向けのインターンシッププログラムや、地元紙の高校生スタッフ、NPO法人カタリバさんが主催する「マイプロジェクト」などに挑戦しました。
3週間で抱いた思いが、こうしたプログラムに飛び込む時に背中を押してくれました。

ちなみに、最終面接で一緒だったK君も無事選考を通過し、共にアメリカに渡りました。
K君をはじめ、こうした学外での活動で知り合った仲間たちは今でもたまに連絡を取り合っています。
学校も生まれ育ったまちも全然違うので、人生で見てきた景色も180度違う人たちばかり。
思い出話や未来への野望を語り合う時間は宝物です。

・ついに名古屋を離れる

高校3年生になるといよいよ大学受験。
周りのみんなは一生懸命勉強していましたが、僕は受験勉強への意欲がほとんど湧かないまま。塾にも通わずマイペースに勉強を進めていました。
オープンキャンパスに参加するという課題も、「どうせどこの大学も良いところしか見せんやろ」と参加したと嘘をついて提出しました。
志望大学は特にありませんでしたが、政治やまちづくりに関心があったのと、一人暮らしをしたい!という願望があったので、その条件に沿って何校か受験し、最終的には龍谷大学政策学部へ進学することとなりました。

・僕が僕でいれる場所

大学進学後、最初に所属したのは「京都学生祭典」という学生団体。
年一度平安神宮周辺でステージや飲食がメインの大きなお祭りを企画・運営するもので、様々な大学の学生が参加するインカレサークルでした。
高校時代の経験がサークル選びにも大きく影響しました。
3年間所属した学生祭典では、本当に沢山の出会いと経験をさせてもらいました。

右も左も分からず、知り合いもいない京都のまちで楽しい大学生活を過ごせたのは間違いなく学生祭典のおかげです。
実は、学生祭典にはテーマソングがありまして。それがChicago Poodleの「ありふれた今日の特別な場面」

その中に「♪僕が僕でいれる場所探し当てたんだ」という歌詞があります。
学生祭典は、僕にとってまさに「僕が僕でいれる場所」でした。

・いざ「ヒッチハイク」に挑戦

小さい頃から「旅」の喜びを知った僕が19歳の春に挑んだのは九州一周ヒッチハイク。
京都から福岡、そして九州をぐるりと一周して、また福岡から帰ってくるというもの。
全行程約2500キロ。27台を乗り継いだ旅は14日間で京都に戻ってくることが出来ました。
実は道中で財布を無くすトラブルがあり、(後日、車内に財布を置き忘れてしまった時のドライバーさんと連絡を取ることに成功し、財布は無事戻ってきました)宮崎駅前で一文無しに。
紛失届を出した交番の方にパンを頂き、持っていた上着を全て重ね着してまだ肌寒い3月、公園のベンチで一夜を過ごしました。

本当に生きるためにヒッチハイクで帰らないと...
翌日、頭が真っ白になりながら再開したヒッチハイクで奇跡が。その日2台目に乗せていただいたご夫婦に「これで最後まで頑張って帰って」と現金を渡していただいたのです。それを軍資金に京都までヒッチハイクを続けることが出来ました。

約半日所持金ゼロを経験し、お金の大切さを再確認すると同時に、「どこかで神様が見ているんだな」とも思った瞬間でした。
ヒッチハイクで乗せてくれる方は、年齢も職種も様々。
十人十色の人生に触れたかけがえのない2週間でした。

・コロナ渦の生きる希望だったBiSH

大学での時間はあっという間に過ぎていき、いよいよ就活が近づいてきます。
ここから、ゼミ活動での出会いをきっかけにタイのコーヒー農園に足を運ぶようになり、大学4回生だった2018年10月に株式会社アカイノロシを設立することになりますが、このあたりからのお話はHPやnoteでも結構触れてきたので、今回はあえてがっつり触れないことにします。

そこからまた時は流れ、会社設立から約一年半が経過し少しずつお仕事をいただけるようになってきた2020年春。コロナウイルスが襲い掛かります。
イベントなどへの出店は全てキャンセル。着々と進めていた実店舗のテナント探しもストップとなりました。

そんな時、僕を救った表現者が六人組ガールズグループBiSHでした。
それまで音楽グループやアイドルグループを追いかけた事は全くありませんでした。

BiSHとの出会いは、あるTV番組。VTRのBGMで流れていたのがBiSHの「beautifulさ」でした。
♪どんなトゲトゲな日でも 息してれば明日は来るんだし
  泣いた後に咲くその花は so beautiful beautifulさ

どんな辛いこと、苦しいことがあっても生きていれば必ず良いことがある。
何気なく流れてきたこの曲が忘れられず、うろ覚えながら歌詞検索して見つけたのがBiSHでした。
歌詞・歌声・ダンスなどから伝わる真っすぐな想いにあっという間に虜になりました。
「自分たちは一体何を届けられるのか」常に向き合い、泥臭く歌い続ける彼女たちの姿はアイドルを超えたカッコよさがあり、あっという間に虜になりました。

CDやDVDを購入し何度も見返したり、ライブにも参加しました。

コロナを乗り越え、大阪城ホールや富士急ハイランドで躍動する彼女たちを生で見たときのあの感動は忘れられません。

2023年6月29日。BiSHは人気絶頂の最中、8年の活動に終止符を打ちました。
どこか儚さを感じさせながら活動を終える。その去り際もBiSHらしく、最後まで心奪われたのでした。

・なぜ一滴も飲んだことが無かったコーヒーの道に進んだのか

今となっては、日々コーヒー屋の店主として店頭に立つ日々ですが、元々僕は一滴もコーヒーを飲んだことがありませんでした。
なぜ、そんな僕がコーヒーを生業とすることになったのか。
理由は一つだけではありませんが、大きなものとして「表現者への憧れ」があったのかもしれません。

これまで記してきたように、人生の節々で様々な表現者たちに救われてきました。
そして、人々が心動かされる瞬間に胸がいっぱいになるのです。

満員の野球場、お揃いのグッズを身に付けたコンサート会場。
その舞台に立つ「表現者」たちに心奪われてきました。

僕がタイコーヒーに出会った、今から6年ほど前。
日本国内でタイ産コーヒーの情報はほとんど出回っていない状態でした。
そんな中、出会ったタイコーヒーを自分たちの手で広げていけば、僕もコーヒーやコーヒーを通じて生まれる空間や交流を通じて、誰かの心を動かす表現者になれるのではないか?と思ったことが理由の一つでした。

コーヒーは、人と人とを繋ぐ潤滑油のような存在です。年齢や性別が違っても、同じ店内でコーヒーを飲んでいれば不思議と話に花が咲く。
その昔、玄関先や地域の銭湯などでみなが声を掛け合い、緩やかな繋がりに安心感を抱いたように。

「友達」とはまた違うけれど、顔を合わせれば自然と会話が弾む。
あらゆるテクノロジーが発達してきたけれど、何だか生きづらさも感じる。
そんな時代の中で、人生をそっと彩る「余白」を提供できればと今は思っています。

そして、今はコーヒーを生業としていますが、ここまで記してきたように僕には大好きなものが沢山あります。「文章を書く」というのもその一つですし、まだまだ長い人生僕なりの表現で一人でも多くの方の心を動かす。
そんな男に僕はなります!次は27年後。20000日記念日にまた皆さんを楽しませられるように。10001日目からまた全力で生きていきます。



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