105日目:たいおん【体温】→掌編小説
たいおん【体温】
動物体のもっている温度。
◆◆◆
彼の妻から電話が掛かってきたとき、わたしは初めて耳にするその名前を、新鮮な気持ちで聞いた。
「トクラの妻です」いつもの番号からスマホに掛かってきた電話をとると、女の声がそう言った。
“トクラ”は頭のなかでうまく変換できなかったけれど、女が“妻”の部分を強調したことはわかった。
通いなれたコンビニの雑誌コーナーの前。わたしはなぜか、目の前にあった読みもしない女性週刊誌をカゴに入れ、我にかえってラックに戻した。
「トクラ、さん」やっとの思いで言葉にする。
「そうです。あなたと毎週木曜日にホテルへ行くトクラの、妻です」女は息遣い荒くそう言った。
わたしは慌てて電話を切り、そのままスマホの電源を落とした。
数か月前のコンパニオンのバイト中に、わたしと彼は出会った。
内容も知らない商談会で、飲物を持って男たちの間を歩きまわる、退屈な仕事。彼はわたしの持っていたトレイから白ワインを取り、コースターに携帯番号を書いた。
なぜ電話をする気になったのか覚えていない。ただ、白髪交じりの枯れた男が多かったそのイベントで、背が高く溌溂とした彼は目立っていた。他の客が水彩画なら、彼は鮮やかなクレヨンで描かれたように、周囲から浮いて見えた。
いつでも皺一つないスーツや、きちんとアイロンのかかったシャツを着る彼が、他の女と暮していることは、言われなくても分かっていた。
わたしと彼は、日が暮れたホテルの一室で、ただお互いの体を確かめ合う関係。
「君はどうされたい?」「あなたは?」
名前も年齢も背負ってきた過去も、知らないからこそ快楽を貪ることは簡単だった。
服を脱ぎ、抱きあっていると徐々に上がっていく二人の体温。
名前なんか知らなくても、ほんの一瞬でも、彼の肌から伝わる熱は、わたしにとって確かなものだった。
たとえ翌朝目覚めるとき、冷え切ったシーツのうえに独りぼっちで残されていたとしても。
真黒なスマホの画面を見つめる。
これから面倒なことに巻き込まれるのか、このまま関係が切れるのか、わからない。
けれど、彼の体温を感じながら眠ることは、きっと二度とないんだろう。
夕飯を買うつもりだったのに食欲が失せて、ビールの500ml缶を1本だけカゴに入れレジに向かった。「ポイントカードありますか?」機械的に言葉を発する男性店員の名札には、“キム”と書いてある。
コンビニ店員の名前だってわかるのに、性感帯を知っている男の名前がわからないなんて。そう思ったら笑えてきた。
ポイントカードを渡し、「ありがと。キムさん」と伝えると、店員は少しハッとしたような顔をしたあと、「ありがとうございます、こじまさん」とわたしにレジ袋を渡した。
一瞬驚いたけれど、なんのことはない、ポイントカードに自分の名前が書いてあるんだとすぐに気づいた。
お釣りを受け取るとき、すこしだけお互いの手が触れ合って、店員は「すみません」と照れたように笑った。
コンビニを出ると、手に残った店員の熱は夜気にさらわれて、すぐにどこかへ消えていった。
わたしを温めてくれるものは、もうなにもない。
スマホを取りだして、電源を入れる。ずっと番号だけで識別していた彼の番号を“トクラさん”で新規登録して、電話を掛け直す。
電話の向こうで、泣きじゃくった女の声が、「はい」と答えた。
お読み頂き、ありがとうございました。 読んでくれる方がいるだけで、めっちゃ嬉しいです!