【日本史8】平安史備忘録57(御家人・侍所・公文所・問注所・鵯越の逆落とし・一ノ谷の戦い・屋島の戦い)
平安時代の学習を深めていきます。
本日の学習は、
①頼朝は鎌倉に留まって派遣した義経らに指示を送りつつ朝廷との交渉や関東の武士の組織化に集中していた。頼朝は親族である範頼・義経らに東国の兵をあまりつけなかった。
②頼朝の家臣となった武士たちは御家人と云われて領地の支配権を保証される御恩と引き換えに忠誠を誓って主君のために戦う奉公という主従関係が築かれた。
③頼朝はこの関係をベースに自身を中心とする関東武士の組織固めを優先させた。組織には関東武士たちの人事や法務を司る侍所があった。
④和田義盛が別当となり梶原景時が所司に就任して御家人を統制した。文書管理は公文所、事務処理は問注所が行った。
頼朝は朝廷とも緊密に連絡をとって自分や御家人の官位が得られるよう動いていた。
⑤平家から没収した土地は義仲討伐が頼朝が継承した。都市整備にも力を入れて八幡大神を祀る由比若宮を沿岸部から内陸に移転させて鶴岡八幡宮とした。これを中心に若宮大路がつくられた。
⑥平家は現在の九州地方、中国・四国地方で戦力を立て直して福原に戻って平安京に攻め入る動きを見せた。源範頼が率いる主力部隊は福原の東に位置する生田の森に義経が率いる少数部隊は福原の南の一ノ谷(兵庫県神戸市須磨区)に布陣した。
⑦1184年(寿永3年)2月に後白河法皇は平家に和平交渉を持ちかけた。平家軍が武装解除した所で範頼と義経らの軍勢が攻め寄せた。義経は急斜面を馬で駆け下り、平家の軍勢を背後から奇襲したと云われている。
⑧これは『平家物語』では鵯越の逆落としと云われるが実際の鵯越(兵庫県神戸市兵庫区)は一ノ谷より東の離れた場所にある。
九条兼実の『玉葉』には鵯越で平家を強襲したのは多田行綱だと記されている。
⑨一ノ谷の戦いで平家軍は数では源氏を上回っていたが寄せ集めの兵が大半であり結束力は弱かった。予想外の打撃を受けると逃げ出した。清盛の四男で大将の知盛は船で海上に脱出したが清盛の甥の敦盛や将兵の大奥が討伐された。
⑩頼朝の命によって範頼が九州における平家勢力の平定に向かった。北条義時(後の2代目執権)や和田義盛ら関東の有力武士も大量動員された。範頼は豊後国(大分県)の有力武士を味方につけて1185年(元暦2年)2月に九州をほぼ制圧した。
⑪瀬戸内海の水軍を率いる平家軍と配下の田口成良は讃岐国の屋島(香川県高松市)に撤退して抵抗を続けた。義経は頼朝の指示を投げ出して後白河法皇の許可を得て屋島に向かった。
⑫平家軍の背後にあった民家に放火をして大軍が襲来したと見せかけた上に干潮時に浅瀬となる場所を通って騎馬で平家軍に突入をした。平家軍は大混乱となり船で西へ逃げ出した。この屋島の戦いは義経側が勝利した。
■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社
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