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【歴史概要129】血の日曜日事件・ソヴィエト・十月宣言・土地改革

①1905年1月9日に大きな騒乱が起こった。神父ガポンはツァーリに対して農民や労働者の窮乏を訴えて議会の招集や政治的自由、戦争中止、8時間労働制などの要求項目を掲げた請願書を提出するためにペテルブルクの冬宮に向けデモ行進を行った。

②この隊列に軍隊が無警告に発砲して1000人(4000人)を超す市民が犠牲になった。これが血の日曜日事件である。

③6月にはオデッサ港でポチョムキン号の兵士が反乱を起こし10月に鉄道や運輸などを含めた全国的規模のストライキが行われた。

④この混乱の中で労働者の間にソヴィエト(評議会)が結成された。労働者は自分たちの意見を政治に反映させる手段を獲得した。

この段階では弾圧されたがロシア革命で指導的役割を担う事となった。

⑤ニコライ2世はウィッテが起草した言論・集会・結社などの自由、選挙権の拡大、国会(ドゥーマ)の承認を受けない法律の無効などを定めた十月宣言を発布した。

自由主義者たちはこの内容を評価しデモなどは終息した。これがロシア第1革命である。

⑥1906年に国会が開設されてストルイピンが台頭した。ウィッテの自由主義改革方針を転じて国会を解散させた。反政府勢力を弾圧して革命状況を抑え込んだ。

⑦ストルイピンは土地改革を行った。

農村共同体ミールを解体して共同体的な土地所有から個人の土地所有への転換をはかった。これにより相互扶助が消え、農民たちの生活をさらに悪化させた。

⑧ストルイピンは重用されなくなり怪僧ラスプーチンが
重用されるようになった。難病の皇太子を心配する皇后の
帰依を受けて宮廷に出入りするようになった。

⑨1916年12月17日にラスプーチンはその振る舞いから暗殺された。ロシアは三国協商(イギリス・フランス・ロシア)の一員として第1次世界大戦に組み込まれていたが開戦とともに武器・食料、物資不足となっていった。こうして1917年の革命を迎える。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社

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