【歴史19】エジプト史備忘録33(アーディル・カーミル・マンスーラの攻防・サーリフ・シャジャルアッドゥッル)
エジプト史の学習内容を深めていきます。
①サラディンの死後に王国は息子をはじめとするアイユーブ家の一族の間で分割された。エジプトのスルタンを盟主とした。シリア各地のアイユーブ家の領主たちが自身の領土を治めて継承する分権体制であった。
②エジプトの支配権は最終的にサラディンの弟のアーディルが支配権を握りカリフに承認された。以後エジプトのスルタンはアーディルの子孫が継承する事となった。
③1213年にローマ教皇のインノケンティウス3世がエルサレム奪還のために十字軍を召集した。
ハンガリー王、オーストリア公、ブルゴーニュ公、バイエルン大公らヨーロッパの各地の諸侯が参加した。
④アイユーブ朝の本拠地エジプトに狙いを定めて侵攻を始めた。1219年に地中海沿岸の要衝ダミエッタを占領した。エジプトはアーディルの子であるカーミルが継承していた。
⑤カーミルは十字軍を撃退するために軍を北上した。カイロの北130㎞のナイル川流域に要塞を建設した。
⑥1221年8月に陣を敷いた十字軍に対してナイル川の堤防に穴をあけて水浸しにする作戦を行った。十字軍は進退ができず撤退する事となった。こうして要塞はアラビア語で勝利を意味するマンスーラと呼ばれる事となった。
⑦1249年6月にフランス王ルイ9世が率いた新十字軍がダミエッタを再び占領した。
当時のエジプトのスルタンはカーミルの息子サーリフであった。サーリフは十字軍討伐のためマンスーラに籠城した。
⑧ところが11月にサーリフが病で亡くなってしまった。
サーリフの唯一の息子である後継者候補であったトゥーラーン・シャーはイラク北部の要塞の城守であったため急にエジプトには戻れなかった。
⑨そこで王妃シャジャル・アッドゥッル(真珠の樹を意)が立ち回って軍をまとめた。シャジャルはバグダードのアッバース朝カリフがサーリフに贈ったトルコ人の女奴隷だったがサーリフの子を産んだので奴隷身分から解放されて王妃となっていた。
⑩サーリフとシャジャルの子は幼くして亡くなったがサーリフはシャジャルを寵愛しており十字軍との戦いの最前線まで帯同していた。
⑪シャジャルはサーリフの死を僅かな人々を除いて隠していた。しかし秘密は漏れていた。1250年2月に十字軍は夜陰にまぎれてナイル川を渡ってマンスーラのエジプト軍に奇襲を行った。
⑫エジプト軍は混乱に陥った。総司令官は風呂に入っていたところを襲われて戦死した。
■参考文献
『1冊でわかるエジプト史』 山崎世理愛 五十嵐大介 河出書房新社
学習教材(数百円)に使います。