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【歴史概要70】三皇五帝・夏・殷・周

①BC2000年ごろに竜山文化の時代となり農村の集落が発展した邑(ゆう)といわれる都市国家が各地に誕生した。

邑が対立するなかで有力な邑が多くの邑を従えるようになって原始的な国家が生まれた。

②そのような国家の建国伝説のなかで出てくるのが三皇五帝である。解説書によって微妙に違うが多くの場合は三皇は燧人、伏羲、神農、五帝は黄帝、顓頊・帝嚳・堯・舜となる。

③堯・舜は儒教で聖人と讃えられた。この舜から位を禅譲されたのが黄河の治水に功績のあった禹であった。

その子どもが位を継承して夏王朝が始まった。夏王朝の最後の王である桀は酒池肉林の暴君であった。

④この桀王を倒したのが湯王であった。湯王が殷王朝(商)を開いた。

⑤夏王朝や殷王朝の存在は清王朝末期の時代には実在は信じられていなかった。

考古学的遺物を漢方薬の一つである竜骨として服用されていた。1920年代ごろから殷時代の本格的発掘が始まった。

⑥BC17世紀ごろから約600年続いた殷王朝の政治は占卜(占いで神のお告げを聞く)で行なわれていた。これが神権政治である。この結果を亀の甲羅や牛の肩甲骨に記したのが甲骨文字であった。それを解読することで殷の歴史が浮かび上がった。

⑦王位継承が兄弟相続から長子相続に変化していき血縁的秩序が少しずつ確立されていったと解読されている。

⑧殷の王は中央集権的な国家ではなく有力者や王族が複数の邑を支配して、有力者たちによって選出されていたとみられる。これが邑制国家である。

⑨殷の王一族が権威の証として利用したのが青銅器であった。殷の次の周の時代にも継承され祖先を敬ったり豊作を祈願する儀式などの時の祭具として使われた。

⑪BC11世紀ごろになり殷の権威は揺らいだ。西方で周が台頭し殷の最後の王である紂が倒された。周が殷を倒したのが牧野の戦いである。これが殷周革命であり、周は封建制という新しい政治秩序を作った。

⑫中国の革命は西欧革命と異なり社会制度の在り方や政治の担い手が徹底的に変更されるものではなく易姓革命である。要するに王朝の交替である。

⑬中国の封建制はヨーロッパ中世の封建制とは異なり血縁関係が基軸となった。ヨーロッパの場合は単なる契約関係であり血縁は無縁であった。周の王をサポートする官僚である卿・大夫・士たちは近縁・遠縁の差はあるが血縁関係だった。

⑭同じ姓の者同士の結婚は禁止されており嫡男を正統にする原則などを規定した宗法が作られた。

これは後の儒教の基本精神となった。しかし長男が優遇される事で二男や三男の不満がでてきた。

⑮経済的にも人口が増えていった。自由な活動を要求する人々の声が大きくなっていきBC9世紀からBC8世紀になると社会は動揺した。

⑯BC770年に西方の犬戎(けんじゅう)という異民族に圧迫され周は都を鎬京(西安)から洛邑(洛陽)に移した。

これを周の東遷という。

ここから春秋戦国時代となっていく。春秋は孔子の記した魯の国の年代記である『春秋』の事であり戦国は前漢の劉向が諸国の外交政策をまとめた『戦国策』の事である。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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