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【日本史8】平安史備忘録56(義仲の猛威・寿永二年十月宣旨・水島の戦い・宇治川の戦い・義仲の最期・義高討伐)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①義仲の直属の兵は少なかったが都に進軍するうちに近江源氏や美濃源氏なども加わった。しかし忠実とはいえなかったので平安京に入ると略奪や暴行を引き起こした。

②平家を追放したが貴族らは義仲を無法者とみなした。それ以前から撤退する平家が建物を放火して僧兵が暴れていたので義仲だけの問題とは言えない。義仲は人望を失って行家は離反した。

③平安京に入った時に義仲は官職がなかったが皇位継承について意見して北陸宮の天皇への即位を訴えた。後白河法皇は平家追放の勲功第1は頼朝、第2は義仲、第3は行家とした。後に義仲の抗議で勲功第1は義仲となった。

④1183年10月に後白河法皇が頼朝に対して従五位下の官位に戻すことと東国の警察権と徴税権を委ねる寿永二年十月宣旨を発した。頼朝はこれを固辞して鎌倉に留まった。

⑤平家の追撃に向かった義仲が備中国(岡山県西部)で平家との合戦である水島の戦いに敗れて都に戻ったが自身の地盤の信濃国を含めた東国支配の権限を頼朝が得たと知った。

⑥義仲は院御所である法住寺殿を攻めて後白河法皇を捕まえて院近臣を追放して宮中の実権を握ると頼朝を討伐する旨の院宣を法皇に強引に発せさせた。

⑦頼朝は範頼、頼経らを西へ差し向けた。平家討伐が名目であったが後白河法皇の内意による義仲の排除を意識したものだった。

⑧義経の軍が都に迫ると近江源氏が義仲から離反して他の畿内の武士団が義仲と敵対するか中立の態度をとった。義仲は平家との同盟を模索したが実現しなかった。

⑨1184年(寿永3年)1月に義仲は宇治川の戦い(京都府宇治市)で範頼・義経の率いる数万もの軍勢に対して千に満たない数で立ち向かった。しかし敗北して北陸方面に逃亡した。

⑩同行者は腹心の今井兼平、巴御前ら数人であった。近江国の粟津(滋賀県大津市)まで来たところで範頼の軍勢に追いつかれると義仲は自害した。そして巴御前は尼になったと云われている。

⑪義経は後白河法皇の身柄を解放して都の貴族に歓待された。義仲の子の義高は婚約者の大姫の手引きで鎌倉を脱出した。

頼朝の追手に討伐されて倒された。大姫は父の頼朝を恨んだが未婚20歳で亡くなった。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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