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【歴史20】カナダ史備忘録18(ラムトン・ダラム報告・連合カナダ植民地・キングストン・オタワ・ブルース総督・ボールドウィン・ラフォンテーヌ)

カナダ史の学習内容を深めていきます。

①1838年にニューファンドランドを除く英領北アメリカ総督としてジョン・ラムトン(ダラム報告)が着任した。英領北アメリカの実情を調査してイギリス議会にダラム報告を提出した。

②ラムトンはカナダ内の改革派が要求していた責任政府の樹立を認めてアッパーカナダとロワーカナダの統合を主張した。この頃の人口数は合わせてイギリス系住民が約55万人、フランス系住民が約45万人と推定されていた。

③両地域を統合して住民に立法議会と行政府を運営させればフランス系の住民もイギリス文化や習慣を受け入れると考えた。

この提言により1841年に両カナダは統合され連合カナダ植民地が成立した。

④自治政府が樹立するとその首都は西カナダ(アッパーカナダ)のキングストン(オンタリオ州の都市)とされた。1844年には東カナダ(ロワーカナダ)のモントリオールへ移転した。

⑤以降は西カナダのトロントと東カナダのケベックシティを往復した。新興小都市のオタワ(物々交換or森の人)が有力候補となった。イギリス王ヴィクトリアが1857年にオタワを首都として1865年に移転した。

⑥今のオタワは政府機関が集中しているが都市の規模はモントリオールやトロントが上回っている。モントリオールは商人が集まって19世紀には英領北アメリカ経済の中心地であった。

⑦トロント(人の集まる場所)は交通要衝だったので急速発達した。1827年に国教会によって設立されたキングズ・カレッジ(トロント大学)は1849年に非宗教的な教育機関として多くの学生を受け入れカナダ最大の大学となった。

⑧イギリスでは植民地改革に積極的なホイッグ党が1846年に政権を握った。ラムトンの娘婿であるジェームズ・ブルース(第8代エルギン伯爵)が次の年にカナダ総督となった。

⑨ジェームズのもとで1848年に責任政府が導入されてイギリス本国と同様に連合カナダ植民地で内閣制度が取り入れたのは自治権拡大につながった。しかし外交権はイギリス本国のものだった。

⑩連合カナダ植民地となり立法議会は西カナダと東カナダで同数の議員を選出した。それぞれ首相を任命した。

初代の西カナダ首相ロバート・ボールドウィンと東カナダ首相ルイ・イポリート・ラフォンテーヌはそれぞれの地域改革派として共同歩調をとった。

⑪ノヴァスコンシア植民地でも連合カナダ植民地よりも先に責任内閣が成立した。

イギリス本国が英領北アメリカの自治権の拡大を認めたのは植民地経営にかかる莫大な費用を抑える意図があった。

■参考文献 『1冊でわかるカナダ史』細川 道久 河出書房新社

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