見出し画像

【歴史19】エジプト史備忘録39(ムハンマドアリー朝・近代化・富国強兵・サウード家)

エジプト史の学習内容を深めていきます。

①1805年5月にカイロの民衆がオスマン帝国の派遣した新総督に反発して暴動が起こった。こうしてムハンマド・アリーは民衆の要望を受けてエジプト総督になった。

②オスマン帝国はこれを認めたのでムハンマド・アリーは実質的なエジプトの支配者となった。一部のマムルークはこれを認めずイギリスと手を組んだ。

③1807年4月にイギリス軍がエジプトに上陸するとムハンマド・アリーはロゼッタ近郊のアル=ハミードでイギリス軍を打破した。

④フランスと対仏大同盟の戦争が続いていたためにイギリスはエジプトから手を引いた。オスマン帝国では政治改革派のセリム3世と抵抗する官僚や軍人の政争で混乱していた。

⑤ムハンマド・アリーは1811年3月に軍の任命式を口実として約500人のマムルークを王城に集めて殺戮をして支配を固めた。

⑥ムハンマド・アリーはナポレオンに倣いフランスから多くの技術者や軍の共感を招いた。留学生もヨーロッパに派遣した。

⑦ナイル川周辺で灌漑工事が実施されて全土で農地の測量が行われ綿花の栽培が広まった。繊維製品の工場も建設されていった。造船所や印刷所もできた。

⑧士官学校をつくって規律と最新戦術を軍人に教育をして統一された国軍を組織した。軍隊の中心はトルコ系やチュルケス系、アルバニア系であった。1822年に徴兵制を導入してアラブ系の農民を兵士とした。

⑨アラビア半島ではサウード家(サウジアラビア王家)の勢力がオスマン帝国の支配に抵抗していた。ムハンマド・アリーはオスマン帝国政府の要請でこの勢力を討伐した。1820年から南のスーダンに軍を派遣して領土を広げた。

■参考文献
『1冊でわかるエジプト史』 山崎世理愛 五十嵐大介 河出書房新社

この記事が参加している募集

学習教材(数百円)に使います。