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【歴史概要54】ボーア戦争・モロッコ事件

①ヨーロッパの列強による植民地争いはアフリカが舞台となった。主にイギリス、フランス、オランダ、ベルギー、ドイツが進出した。西欧列強諸国は時に協力しながら時に対立した。

②アフリカの最南端、喜望峰にヨーロッパ人で初めて到達したのはポルトガルの探検家バーソロミュー・ディアスであった。

③ポルトガルはこの地に拠点の建設はせず17世紀の半ばにオランダ人がここに中継基地としてケープタウンを建設し植民地が始まった。

④オランダ政府は入植者に便宜を与えたのでナントの王令の廃止によってフランスを追われたユグノーを迎えいれる事があった。このプロセスで混血が進みボーア人(ケープの白人系移民の事/ボーアとは農民)が形成されていく。

⑤フランス革命からナポレオン戦争時代となると植民地のあり方が変わった。18世紀の末イギリス軍が上陸してケープタウンを占領した。一時期オランダ側が奪還したが最終的にウィーン会議でイギリス領となった。

⑥イギリスから入植者が増えてくるとボーア人は海岸部から内陸に向けて移住を開始した。これをグレートトレックという。

南アフリカで強大な勢力であったズールー族と戦ってナタール共和国を樹立した。

⑦イギリスはナタール共和国も制圧した。その後ボーア人が内陸へ北上してオレンジ自由国とトランスヴァール共和国を樹立した。1860年~1880年代にトランスヴァールでは金、オレンジではダイヤが発見された。

⑧トランスヴァールの併合をねらったイギリスはここを攻めた。しかし狙撃に秀でたボーア人に敗北した。これが第1次ボーア戦争である。

⑨トランスヴァールやオレンジのボーア人政府はこの地に入ったイギリス人に対して差別的な対応をしていた。1899年11月にイギリス本国はイギリス人の保護を口実にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国に宣戦した。

⑩イギリスはトランスヴァール共和国やオレンジ自由国の首都を占領したがボーア人のゲリラ活動は旺盛であった。国際世論はイギリスを批判したが1902年にボーア人は降伏して両国はイギリスの直轄植民地となった。

⑪戦後にイギリスはボーア人との和解をはかった。ケープ植民地・ナタール・トランスヴァール・オレンジからなる南アフリカ連邦を組織した。この間、南アフリカの地域にはインド人の契約移民が大量に導入された。

⑫政府はボーア人の利益を守るために非白人との人種差別立法を制定した。1911年の鉱山労働法から始まった。これで人種による賃金の格差、熟練工を白人に制限する事が決められた。

以後多様な法律が制定された。アパルトヘイトの始まりはこのような政策であった。

⑬ベルリン会議でアフリカの危機を調停したドイツ帝国のビスマルクは国策として植民地獲得には積極的ではなかった。トーゴやカメルーン、東アフリカ(タンザニア)、南西アフリカ(ナミビア)を植民地化していたが他国ほどではなかった。

⑭1890年にビスマルクを退陣に追い込んだヴィルヘルム2世は積極的な対外政策を行った。イギリスに対抗できるような海軍の建設を推進した。19世紀末にはアフリカのほとんどの地域の分割が行われていた。

⑮モロッコは1904年の英仏協商でフランスの優越権が認められた。1905年にはヴィルヘルム2世がタンジールを訪問しモロッコ独立支援の立場を表明した。1906年に開かれたアルヘシラス会議でモロッコ主権の尊重が確認された。

⑯ヴィルヘルム2世は1911年になってドイツの軍艦をアガディールに派遣した。内政混乱によるベルベル人の反乱がきっかけとなったが、フランスとドイツが干渉した。

この時イギリスはフランスをサポートしドイツはカメルーンで領土を増やす事で妥協が成立した。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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