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【歴史概要46】クリミア戦争・モンテネグロ問題

①クリミア戦争の直接の契機はフランス第2帝政ナポレオン3世が
フランス国内のカトリック教徒の歓心を買うためにオスマン帝国にエルサレムの管理権を要求し獲得した事であった。

②ギリシア正教の庇護者を任じるロシアのニコライ1世は
これに反発した。

③この頃オスマン帝国支配下のモンテネグロで改革が行われた。
オスマン帝国は干渉をしたが双方に講和の意思はなかった。

④モンテネグロにはセルビア、オスマン帝国にはフランスが後押しする形となって対立は長続きした。最終的にモンテネグロは大敗北をして汎スラヴ主義者に危機感をもたらした。モンテネグロ問題を話しあうためロシア・イギリス・フランスがイスタンブールで会見するが話しあいは進まなかった。

⑤1853年7月にロシアはワラキアやモルダヴィアに軍隊を送って10月にロシアとオスマン帝国が開戦した。クリミア戦争勃発である。

⑥バルカン半島の反オスマン組織が決起しギリシアはこれらをサポートした。ロシアの勢力強大化を恐れたイギリスやフランスは牽制で攻撃した。こうして反オスマンの諸勢力の動きは抑えられた。ロシアもブルガリア侵攻作戦が功を奏さなかった。

⑦1853年11月の黒海南岸シノペ湾で起きたオスマン艦隊と港湾が少数のロシア艦隊によって一方的に壊滅された事件が起きた。フランスとイギリスは危機感を持ちオスマン帝国と同盟を結び1854年3月にロシアに宣戦した。

⑧オーストリアもバルカン地域と関係が深かったのでイギリス・フランス同盟軍の行動を妨害し同盟軍はクリミア半島のセヴァストポリ要塞を攻撃する事となった。

両国同盟軍は地域情勢に疎く、ロシア軍も指揮系統に混乱があり双方とも上手くいかなかった。

⑨ロシアはイギリス・フランス・オスマン帝国の連合軍の攻撃に1年以上抗戦したが最後は陥落した。劣悪環境で病死する人も多く双方合わせて20万人の兵士が亡くなった。

⑩戦場で傷病兵の看護にあたったナイチンゲールの活躍はイタリア統一戦争の戦場をみたアンリ・デュナンに影響を与え万国赤十字社を生む事となった。

⑪フランス第2帝政ナポレオン3世は戦争継続を躊躇した。

フランス軍のサポートなくして継続の困難であったイギリス、ロシアではニコライ1世に代わったアレクサンドル2世が戦争継続を断念した。

⑫1856年にパリ条約が締結された。黒海での軍艦航行と黒海周辺での軍事施設の建設が禁止されロシアでは南下政策が挫折した。これにより国内改革をせざるをえなくなった。

⑬クリミア戦争での戦闘は黒海周辺だけでなく北部太平洋のカムチャッカ半島でも行われていた。フランス海軍はペトロパブロフスクを攻撃し上陸後の陸戦で敗北している。

⑭ロシアのプチャーチンが日本に来航して下田で日露和親条約を調印するのはクリミア戦争中の1854年であった。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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