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【歴史20】カナダ史備忘録13(13植民地課税・ケベック法・第1回大陸会議・アメリカ独立戦争・パリ条約(1783年)・アメリカ合衆国創立・英領北アメリカ)

カナダ史の学習内容を深めていきます。

①1763年のフレンチインディアン戦争の終結後にイギリス国王ジョージ3世は北米大陸の植民地に布告を発した。

②(1)植民地と先住民の衝突を防ぐために五大湖周辺を含むアパラチア山脈から西を先住民の居住地とする事、(2)新しく英領となったケベックに議会の設置を認めるがカトリック教徒は議員になれないという内容であった。

③この時期にフレンチインディアン戦争によって多額の戦費で困っていたイギリス本国は13植民地に印紙税や砂糖税などの税を課していった。課税を強いられたのが北米大陸の東海岸に築かれた13植民地であった。

④13植民地は「代表無くして課税なし」を掲げてイギリス本国へ抵抗運動が展開された。イギリス議会は1774年6月にケベックを統治するための法律を制定した。

⑤ケベック法は住民のカトリック信仰の自由、フランスの伝統的な民法を認めるものだった。オハイオ川より北の広い地域をケベックに編入する事が決まった。ケベックの住民を味方につけて13植民地が西へ境界を拡大させない思惑があった。

⑥13植民地はケベック法に強く反発した。1774年9月にジョージアを除く12植民地(後にジョージアも参加)の代表者が第1回大陸会議を開いてイギリス本国と対決する姿勢となった。

⑦大陸会議(13植民地政府)とイギリス本国の対立は激化して1775年4月にマサチューセッツ植民地でイギリス軍とマサチューセッツ民兵隊が激突した。こうしてアメリカ独立戦争が勃発した。

⑧第2回大陸会議ではフレンチインディアン戦争でフランス軍と戦ったジョージワシントンが植民地軍の最高司令官に任命された。その後ワシントンはアメリカ合衆国の初代大統領となった。

⑨13植民地はケベックに大陸会議の参加を打診したがケベックはこれを拒否した。立場は中立であった。ケベック住民の大半はフランス系でイギリスへの反発心があった。

⑩今のカナダにいた住民であった漁師や商人たちは顧客であるイギリスと敵対したくはなかった。ケベック法で信仰が保証されたがピューリタンの多かった13植民地を敵視する風潮があった。

⑪1775年に植民地軍はケベックに侵攻してカトリック教会を襲撃してケベック各地の物資を奪った。イギリス軍の増援がケベックに到着すると植民地軍は撤退していった。ケベック住民は起こり13植民地と対立した。

⑫13植民地はイギリス本国と対立した当初は本国の不当政策の撤回を唱えただけだった。戦闘が激化するなかで本国から独立した新たな国家を希求するようになった。1776年にはアメリカ独立宣言が採択された。

⑬植民地軍は1777年のサラトガの戦い(ニューヨーク州北部)での勝利によって形勢が変わった。フランスが植民地軍の勝利をきっかけに大陸会議側として戦争参戦した事も勝因となった。スペインとオランダもこれに続いた。

⑭フランスはケベックが大陸会議の支配地になる事を望まず
現状を維持する方針を取った。

⑮1783年にイギリスは大陸会議とパリ条約を結んでアメリカ合衆国の独立を正式に認めた。

イギリスは五大湖の南岸一帯(4つの湖上に国境ができた)とそれ以南の領土をアメリカに譲ってケベックは縮小された。

⑯今のカナダ地域はアメリカ合衆国と区別された。英領北アメリカと総称されるようになった。

■参考文献 『1冊でわかるカナダ史』細川 道久 河出書房新社

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