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【歴史概要121】護国卿・審査法・名誉革命・ハノーヴァー朝・立憲君主制・責任内閣制

①クロムウェルは1649年1月にチャールズ1世を処刑して3月に貴族院を廃止して水平派(平等派)を弾圧した。

②5月に共和政が宣言されるがこの間に急進的な真正水平派(平等派)を弾圧し独裁体制を固めていった。

③反革命勢力の逃亡したアイルランドやスコットランド遠征を行ったがアイルランドではケルト人の土地を奪い植民地化のきっかけとなった。

④独立派政権は絶対君主を倒したという点では市民革命と云える。しかし政治は宗教復古主義的傾向(=宗教右派)が強かった。とりわけピューリタニズムに基づく娯楽禁止が顕著である。

⑤1653年に軍隊が用意した成文憲法である統治の章典によってクロムウェルは護国卿(ロード・プロテクター)となった。政治は不安定だったため軍事的独裁体制は強化されていった。

⑥議会内のロンドンの大商人のグループが1651年に航海法(航海条約)を制定させてイングランドの関わる貿易活動からオランダ船の排除を画策した。こうして1652年に英蘭戦争が起こる。

勝利したイングランドはスペインとも戦い海洋覇権に向けて活動していく。

⑦1658年にクロムウェルは亡くなった。息子のリチャード・クロムウェルは護国卿となったが政治混乱を収拾できず護国卿を辞退した。1660年に貴族院が復活し新議会が招集され王党派が復帰した。

⑧チャールズ1世の息子が復帰してチャールズ2世として即位した。オランダでブレダ宣言を発表した。革命関係者の大赦、信仰の自由、革命中の土地所有権の不問などを確認しスチュアート朝を復活させた。これが王政復古である。

⑨しかしチャールズ2世はすぐに専制化した。この時代も多くのピューリタンがアメリカ大陸に移住していったのは多くの圧政によるものであった。

⑩チャールズ2世は国教会よりもカトリックを擁護した。1670年にルイ14世とチャールズ2世との間で結ばれたドーバーの密約が問題となった。イングランド国王がカトリックに改宗すればフランスが軍事的サポートをするというものであった。

⑪これに対して議会は1673年に非国教徒は公務員になれない事を定めた審査法を定めた。1679年には不法な逮捕・投獄を禁じた人身保護法が制定された。

⑫1685年にチャールズ2世は亡くなり弟がジェームズ2世として即位した。ジェームズ2世はカトリックに改宗しておりカトリック国王として君臨した。カトリック化と専制主義の復活という問題が重なって出現した。

⑬1670年には地主勢力を中心とした王権擁護派のトーリー党と
商工業者や非国教徒を中心にしたホイッグ党が結成された。

⑭両党は協力してジェームズ2世の娘であるメアリと結婚していたオラニエ公(オランダ諸侯)のウィリアムを国王として招聘する事とした。抵抗が不可能と考えたジェームズ2世はフランスに亡命した。

⑮2人はウィリアム3世とメアリ2世として王位に就いた。この無血クーデターを名誉革命という。1689年に議会は権利の宣言を発表した。国王はそれを権利の章典として発布した。

こうして王権は規制されて議会が主権を行使する立憲君主体制が確立した。

⑯ウィリアム3世亡き後にメアリ2世の妹のアンが国王となる。アンに子どもはいなかったので、アンの死後にジェームズ1世の家系に戻って孫のソフィアの息子であるドイツのハノーヴァー選帝侯が選ばれた。

⑰ハノーヴァー選帝侯のジョージ1世がイギリスに君臨した。1714年にスチュアート朝からハノーヴァー朝に移行した。

⑱ジョージ1世は英語が不得意でドイツに戻る機会も多かったので1720年代にウォルポール内閣(初代首相)で責任内閣制が成立した。内閣が議会(国民)に対して責任を持つというものであった。

これにより「国王は君臨すれども統治せず」という原則が確立された。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 関 真興 日本経済新聞出版社

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