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【歴史19】エジプト史備忘録30(カイロ・アズハルモスク・セルジューク朝・スルタン)
エジプト史の学習内容を深めていきます。
①ファーティマ朝で953年に即位した4代目カリフ・ムイッズは領土の拡大を目指した。西方で将軍ジャウハルの指揮のもとにマグリブ(北アフリカ)全域を支配下に入れた。ムイッズは東方にジャウハルの軍勢を向けて969年にエジプトを征服した。
②ジャウハルはフスタートの北方約3kmの場所に新しい都市を建設した。アラビア語で勝利者を意味するカーヒラと名付けた。この英語読みがカイロである。
③カイロに建設されたアズハル・モスクには学院(マドラサ)が併設されシーア派教学の中心として発展して宣教員も要請された。ファーティマ朝はアッバース朝を滅ぼして唯一のカリフになる事を目的としていた。
④973年にムイッズはカイロに拠点を移してエジプトを王朝の本拠地とした。以後ファーティマ朝はエジプトを拠点に軍事力を拡張して宣教員の活動により各地に支持勢力を増やしていった。
⑤シリアの南半分を直接の支配下に組み込んだ。周辺王朝はファーティマ朝カリフの権威を受け入れた。メッカとメディナの統治者たちもファーティマ朝カリフの宗主権を認めた。
⑥ファーティマ朝は10世紀を通じて繁栄していった。1038年にトルコ人の部族集団を母体としたセルジューク朝がイラン北東部のニーシャープールで成立した。
⑦セルジューク朝はイラン全土を席巻して領土を拡張して1055年にバグダードに入城した。
セルジューク朝の創始者であるトゥグリル・ベクはアッバース朝カリフからスルタンの称号を与えられた。
⑧こうしてスルタンはイスラーム世界の君主の称号となった。セルジューク朝はスンナ派の保護者を自任してシーア派のファーティマ朝に対する敵対姿勢を強めていった。
⑨イラク、シリア、アナトリアと勢力圏を拡大していきシリアでのファーティマ朝の権力は失われた。
⑩11世紀末にセルジューク朝の3代目スルタンであるマリク・シャーが亡くなるとスルタンの位をめぐりセルジューク朝は分裂した。各地に独立政権が乱立した。
西欧からは十字軍が到来する事となった。
■参考文献
『1冊でわかるエジプト史』 山崎世理愛 五十嵐大介 河出書房新社
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