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【日本史8】平安史備忘録55(源義仲・倶利伽羅峠の戦い・平家の都落ち)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①各地で挙兵した反平家勢力の1人である源義仲は河内源氏に属して頼朝の従兄弟である。乳母の夫で信濃国の豪族だった中原兼遠のもとで育てられた。

②義仲の愛した巴御前は兼遠の娘とも云われている。頼朝と義仲は源氏の主導権を争うライバルであった。頼朝と対立した叔父の行家と義仲が手を組んだ事で軍事衝突が起こりかけた。

③交渉の末に和睦をした。1183年(寿永2年)3月に義仲の長男の義高が人質として鎌倉へ移って頼朝の長女の大姫と婚約した。

④義仲は頼朝と甲斐源氏(武田氏)との衝突を避け釣飴に関東・東海への進出を控えて地盤である信濃国から越後国(新潟県)に侵攻して北陸に勢力を広げた。

⑤以仁王の遺児の北陸宮が義仲に合流すると義仲は平家を打倒したに北陸宮を即位させる事を大義名分とした。平家は北陸宮が天皇となる事を恐れて義仲を討つ事を優先とした。

⑥1183年6月に義仲の軍勢と維盛の軍勢が越中国(富山県)と加賀国(石川県南部)の境にある砺波山の倶利伽羅峠で激突した。『平家物語』によれば平家側の軍勢は10万人とされている。数で劣る義仲は平地での戦いは不利として峠で奇襲を仕掛けた。

⑦平家の兵士は足場の悪い山道で背後から突如として攻撃を受けて次々と崖から転落して平家軍は壊滅した。『源平盛衰記』では義仲は火牛の計を使ったと云われているが史実ではない。

⑧勝利した義仲は加賀国、越前国(福井県北部)を南下して
延暦寺の僧兵を味方につけた。都まで迫った7月に平家一門は
安徳天皇とともに西国へ逃亡した。これが平家の都落ちである。

⑨後白河法皇は平安京に留まって安徳天皇の異母弟で4歳の尊成親王を後鳥羽天皇(82代目)として即位させた。

ただ皇位の正統性を裏付ける三種の神器は平家が持ち去ってしまった。ゆえに平家打倒と三種神器回収が義仲や頼朝に求められた。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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