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【歴史概要96】金(女真)・南宋・モンゴル・朱子学・両税法・草市

①12世紀になると女真族の完顔阿骨打(わんやんあぐだ)が満州に金を建国した。宋はこの金と同盟して遼を滅ぼした。

②その後に金が占領した燕雲十六州の回復をはかって
金と戦ったが敗れた。皇帝欽宗と位を投げ出していた徽宗は
捕虜となり宋は一旦滅んだ。これが靖康の変である。

③主戦派の代表者岳飛は和平派の秦檜(しんかい)のために
失脚して秦檜の指導で淮水(わいすい)を金との領土の境界とした。
そして宋が金の臣下になるという和平条約を結んだ。

④宋は開封を捨て江南の臨安に都を移して体制を維持した。ここから南宋が始まった。

⑤1206年にチンギス・ハンがモンゴル帝国を樹立した。5代目のフビライ・ハンは1271年に元を建国した。1276年には南宋の都である臨安を陥落させた。

⑥南宋軍は広東省、香港の近くの崖山に拠点を築いて最後の抵抗を行った。元軍はイスラーム教徒のサポートを受けていた。1279年に将軍たちの絶望感が広まる中で宰相の陸秀夫が幼帝を抱えて入水した。南宋は滅亡した。

⑦この状況から中国人の政治意識と民族意識が勃興する。南宋の学者である朱熹は朱子学を大成し君臣秩序を明確にする大義名分論を展開して中華を優越しする華夷の別を強調した。後に儒教の正統教義として江戸幕府の柱となった。

⑧両税法は中国社会の在り方を変化させた。それまでの中国では土地は公のものという考え方であり均田制などによって農民たちに分与されていた。しかし両税法は個人的な土地所有を認めた。

⑨形勢戸といわれる新地主階級が出現した。この地主たちが科挙を通じて中央政界に進出していった。唐で権力を持っていた古代以来の貴族たちは衰退していった。

土地を失った農民は佃戸(でんこ)といわれる小作農となり宋代社会の中核となった形勢戸の基盤をサポートした。

⑩華北が北方民族に占領されていたので多くの農民が江南に移住した。こうして魏晋南北朝時代以上に江南の開発が進んだ。水利技術が江南にもたらされ生産力が向上した。

⑪都市も発展していった。唐の後半から経済規制がなくなっていた。唐は碁盤の目状の都市計画で知られている。商売は東市・西市といった区域制限があったが唐末にはなくなった。都市を囲む城壁外に草市といわれる市場が出現した。

⑫北宋の都の開封が南北を結ぶ運河の結節点であった。要は商業都市であった。都市には瓦市という歓楽街があった。飲食的、公欄という劇場、妓楼などが並んで深夜も賑わっていた様子が『東京夢華禄』などに残されている。

⑬職人たちは作、商人たちは行という組合を組織して利益を守った。唐時代には飛銭といわれた手形が発達し交子や会子という紙幣が流通し始めた。これは元の交鈔という紙幣に継承された。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 関 真興 日本経済新聞出版社

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