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昭和30年のてるてる坊主【てるてるmemo#23】


 これまで9回にわたり、昭和30年代のてるてる坊主について検討してきました。対象としたのは、てるてる坊主研究所でジャンルを問わずに蒐集してきた文献資料。
 最終回にあたる10回めの今回は、てるてる坊主が登場する昭和30年(1955)の資料を紹介します。これまでに紹介した昭和39年(1964)から31年(1956)までの9年間の事例とも比較をしながら、検討を進めていきましょう。
 まず注目したいのは絵のある資料。この年は14例を数えます(★後掲の「昭和30年(1955年)のてるてる坊主【てるてる坊主図録Ver.3.10】」、および、表1参照)。⑬は教科書です。また、⑭は今回新たに蒐集できた資料です(★図1参照)。

1、姿かたち、目鼻の有無

 絵のある資料14例をめぐって、検討の切り口としたいのは、てるてる坊主の「姿かたち」および「目鼻の有無」の2点です。
 第一に姿かたちをめぐって。昨今のてるてる坊主は裾をひらひらとさせたスカートのような姿をしています。昭和30年代も、そうしたスカート姿のものがほとんどでした。しかしながら、着物を着たり帯を締めたりした姿のものもときおり散見できました。そして昭和33年だけは、着物姿のものとスカート姿のものが数の上では拮抗しています(★表2参照)。

 この昭和30年もやはりスカート姿が優勢で、14例のうち実に12例(①②③④⑤⑥⑦⑨⑩⑪⑫⑭)も見られます。いっぽう、着物姿のものは6例(⑤⑧⑨⑪⑬⑭)見られます。前掲した資料⑭(図1参照)のように、スカート姿のものと着物姿のものが併存している事例も多く、合わせて4例(⑭のほかに⑤⑨⑪)も見られます(★図2参照)。

 第二に目鼻の有無をめぐって。絵のある14例のうち、眉や目・鼻・口など、顔のパーツのいずれかがあるものは8例(③⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑭)。いっぽう、目鼻がないのっぺらぼうのものも8例(①②④⑤⑥⑦⑪⑬)見られます(⑦⑪は両者が併存)。
 昭和30年代には、大半の年で目鼻のあるものが優勢でした。そうしたなか、この昭和30年と37年だけが、目鼻のあるものと目鼻のないものが数の上では拮抗しています(★表3参照)。

2、木や建物の周辺部に吊るす

 てるてる坊主が描かれた14例の資料から読み取れる情報をもとに、昭和30年のてるてる坊主の傾向を大づかみにしたところで、続いては絵のない文字資料にも目を向けてみましょう(★表4参照)。

 前掲した表1と表4を合わせて注目したいのが、てるてる坊主の設置場所。目立つのは木という事例で13例(①②⑥⑧⑪⑬⑭⑲㉑㉔㉕㉟㊱)見られます。具体的な樹種が明示されている例も多く、南天3例(⑥⑲㉕)のほか、カエデ(②)、桜(㉑)、梅(㉔)、ビワ(㉟)、柿(㊱)が1例ずつと多様です。
 ほかに目立つところでは、軒に3例(⑯⑲㉖)、窓辺にも3例(⑨⑮㉒)見られます(⑲は木と軒を並記)。軒と窓辺を建物の周辺部として合わせると6例を数えます。
 「木」と「建物の周辺部」の事例数を比べてみると、昭和30年代には大半の年で「建物の周辺部」が優勢でした。そうしたなか、昭和31年と35年は「木」がやや優勢、そしてこの昭和30年は「木」が大きく優勢です(★表5参照)。

3、そのほかの設置場所と設置方法

 木や軒・窓辺以外の場所に、てるてる坊主が設置されている事例も散見できます。ふたつ紹介しましょう。ともに、設置場所だけでなく設置方法もユニークです。
 ひとつめは電話機や電信柱に設置する事例。小説家・北町一郎(1907-90)の童話集『私は豆記者』(資料③)に収められた「オデコと電話」というおはなしです[北町・久米1955:186-187頁]。

「おかしいわねえ。ははあ、わかったわ。うちの電話は、電線なしできこえる、無線電話なのかしら。」
「いいえ、きょうは、雨ふりだから、お天気になりしだい、電話線をかけるのですってよ。」
「なあんだ、そうなの。こんな雨、早くやんでくれないかなあ。」
マサ子さんは、てるてるぼうずを、こしらえて、新しい電話機にぶらさげた。もう一つは、電信柱にしばってきた。

 降り続く雨さえ上がれば、電信柱に電話線が架けられ、そうするといよいよ我が家にも電話が通じるという場面です。雨が止むのを心待ちにしている女の子は、てるてる坊主をいくつか作りました。家の電話機のほか、近所の電信柱にもてるてる坊主を設置しました。電信柱には吊るすところがなかったようで、てるてる坊主を縛ったといいます。
 画家・久米宏一(1917-91)による挿絵も添えられています。てるてる坊主を電信柱に設置する場面です。ただし、てるてる坊主は本文の記述のように縛られるのではなく、絵のなかでは吊るされています(★図3参照)

 ふたつめは竿に設置する事例。作家・サトウハチロー(1903-73)の小説『ぼくは中学一年生』(資料⑥)に収められた「雨まねき坊主」というおはなしです[サトウ・渡辺1955:217-218頁]。

ぼくは悠々と、紙とわたと糸とで、坊さんをこしらえていた。丸めたわたを入れて、首のところを糸でくくるだけのことだが、なかなかかっこうよくはできないものだ。……(中略)……ぼくは、こしらえたテルテル坊主を墨でくろぐろと染めはじめた。
テルテル坊主は南天の枝にぶらさげるが、ぼくはその反対なのだ。フレフレ坊主なのだ。……(中略)……ものほしざおを一本かりて屋根にのぼった。麻糸、源氏糸のくずで、六つのフレフレ坊主を竹ざおにゆわえつけた。あたりをみまわして、立てるところを物色したら、二階のといが目についた。タテのといだ。その上の穴から下へとつきさした。四方八方から丸見えだ。

 雨が降るように願いながら、男の子が「テルテル坊主」を墨で真っ黒に染めて「フレフレ坊主」を作っています。男の子は「テルテル坊主は南天の枝にぶらさげるが、ぼくはその反対なのだ」と考えました。
 竹製の物干竿を持って屋根に上ると、それを2階の雨樋に突き刺し、「フレフレ坊主」を6個も結びつけたといいます。画家・渡辺三郎(1913-2013)による挿絵が添えられています(★図4参照)。

 このほかに、船上でマストのロープにてるてる坊主をぶら下げるという事例(資料㉝)も見られるのですが、これについては後述します。 

4、材料と作りかた

 続いては、てるてる坊主の材料と作りかたに注目してみましょう。
 先述のように、サトウハチローの一文「雨まねき坊主」(資料⑥)においては、男の子が「フレフレ坊主」を作っていました。作りかたについては「丸めたわたを入れて、首のところを糸でくくるだけのことだ」と記されています。そして、「麻糸、源氏糸のくずで、六つのフレフレ坊主を竹ざおにゆわえつけた」といいます[サトウ・渡辺1955:217-218頁]。
 フレフレ坊主を竿に結びつけるのに用いている源氏糸とは、紅白の糸をより合わせた細いひものこと。挿絵を見ると、できあがった「フレフレ坊主」はスカート姿をしています(前掲の図4参照)。

 学校で図工の時間にみんなで作るてるてる坊主に触れているのが、教育学者の村井実(1922-)と稲垣友美(1917-)が編んだ『小学校社会科学習指導細案』1-2学年用(資料⑰)。一年生の指導用に「えんそく」という節が設けられており、そのなかで、遠足に際しててるてる坊主を作るように案内されています[村井・稲垣1955:132頁]。

5. てるてるぼうずを作る
(図工科・音楽科の時間を当てる。)
(1) てるてるぼうずの話をする。
(2) てるてるぼうずを作る。
  ○新聞紙をまるめて頭のしたを作る。
  ○それにわら半紙をかぶせて、前を糸でしばり、つるすところをつける。
  ○大きい色紙で胴をつつむ。
  ○クレヨンで顔をかく。
  ○巾2センチくらいの別の色紙で帯をつける。(教師が切っておく。)
(3) てるてるぼうずを手にもって、みんなでてるてるぼうずの歌を歌う。(前に指導しておく。)

 丸めた新聞紙をわら半紙で包んで頭の部分とします。首の部分を糸で縛り、顔には目鼻などを書き込みます。大きい色紙で胴の部分を包んで着物とし、2センチ幅に切っておいた色紙を帯として締めます。できあがるてるてる坊主は、こちらは着物姿のものです。

 てるてる坊主が着物姿をしていることがわかる事例をもうひとつ。『新墾:短歌雑誌』25巻8号(資料㉙)には、「てるてる坊主」と題して次のような短歌が寄せられています(同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)[『新墾』1955:31頁]。

アベツクのてる〳〵坊主ぶら下げてひそかに待たむ明日の希ひを
アベ(ママ)クのてる〳〵坊主の振袖はやゝしおらしき今朝の寄添ひ

 北海道河西郡の川西村(現在の帯広市の一部)の瀬川美智子(生没年不詳)が詠んだ2首です。てるてる坊主がふたつ、仲良く寄り添って吊るされています。後者の歌によれば、材料や作りかたはわからないものの、てるてる坊主は振袖姿であるといます。
 このほかに、てるてる坊主の材料がわかる事例に注目すると、紙という事例が2例(⑤㉒)、なかでも千代紙という事例が1例(⑱)見られます。

5、何十年に一度の皆既日蝕

 この昭和30年には、6月20日に日蝕が見られました。とりわけ、インド洋のセイロン島(スリランカ)では、20世紀最長の皆既日蝕が期待されたといいます。こうした日蝕との関連で、てるてる坊主に触れている事例を3例紹介しましょう。
 1例めは、生駒山天文協会の機関誌『天文教室』10巻7号(資料㉜)に掲載された「運を天にまかせて」という一文から。文末に「浜根」と記名があります[『天文教室』1955:3頁]。

夜のニュースでセイロン島は曇りでとうていだめだろうとか。皆んなで心配した。一そ(ママ)、セイロン島の雲が生駒の方へくればよいとか。テルテル坊主を作つてセイロンが晴れる様においのりしようかという始末まあ明日は明日になつてからと云う訳で、床に入つた訳……(以下略)

 日蝕前夜の様子が綴られています。おそらく、皆既日蝕を観測するために、仲間がセイロン島まで出向いているのでしょう。自分たちのところはどうなってもいいから、せめてセイロン島の上空が晴れますように、という切実な祈りが感じられます。
 2例めは、日本天文学会の機関紙『天文月報』48巻8号(資料㉝)の「月報アルバム」欄から。「日食写真集」と題して写真が何枚か掲載されているなかの1枚です(★後掲の図5参照)。説明文には次のように記されています[『天文月報』1955:131頁]。

南ヴェトナム キキュイク湾に入港する海上保安庁巡視船の「つがる」。マストに掲げられた三本縞の旗はヴェトナム国旗。他方は保安庁旗でロープには観測員達の願いをこめたテルテル坊主がぶら下っている。

 残念ながら写真が不鮮明なため、てるてる坊主の姿を確認することはできません。日蝕に際して海上保安庁の巡視船が、観測に適したベトナム南部まで派遣されたそうです。観測員たちは晴天を願って、船のマストにつながれたロープにてるてる坊主を吊るしたといいます。

 1例めと2例めが、日蝕に際しててるてる坊主が作られた実例を伝えているのに対して、次の3例めは、もはやてるてる坊主は無用とする事例です。宗教問題研究所の機関誌『宗教公論』25巻7号(資料㉞)に寄せられた一文「日食と祈り」から。題名のとなりに「X・Y・Z」と記名が付してあります[『宗教公論』1955:6頁]。

去る六月二十日の日食には今後数十年間見られない皆既日食を見ようとして各国とも観測陣を総動員した。現代の科学は天候を克服し、ジェット機を密雲の遥か上空を飛ばせて完全に黒日を捉えた。テルテル坊主ももうレーゾン・デートルを失つたのだ。

 「レーゾン・デートル」とはフランス語で存在理由とか存在価値のこと。日蝕の観測にジェット機が投入される昨今、もはや雲の有無が問題となる時代は過ぎ去り、てるてる坊主も無用となったようだと記されています。

6、「ふれふれ坊主」と「雪ふれ坊主」

 本来は晴天祈願であるはずのてるてる坊主。それを反対に、雨を願って「ふれふれ坊主」に転用している事例も目立ちます。実に4例も見られます。
 そのうちのひとつは、竿に設置する事例として先述した、サトウハチロー『ぼくは中学一年生』(資料⑥)所収の「雨まねき坊主」というおはなし。てるてる坊主を墨で黒々と染めて「フレフレ坊主」が作られていました[サトウ・渡辺1955:217-218頁]。
 サトウハチローは別の作品にもふれふれ坊主を登場させています。小説『踊るドンモ』(資料㉚)に収められた「14日+1日=半月ナリ」というおはなしです。野球の練習が嫌なので、雨が降るよう願って「ふれふれ坊主」が作られます[サトウ1955:86頁]。

ゲンコツをかためて、とびおきた。窓からゲンコツをつきだした。ふりまわしてどなった。
「雨のやろう、でてこい」……(中略)……
ふれふれ坊主なんていう、おかしなものも考えだした。テルテル坊主があるんだから、ふれふれがあってもふしぎじゃない。……(中略)……
テルテルが白だから、黒にぬった。
ききめがあるようにと、中にアメ玉をいれた。アメ玉のアメを雨にきかせたわけだ。

 ここでもやはり、「ふれふれ坊主」は黒く塗られています。雨が降るように飴をなかに入れるという念の入れよう。
 同じように黒く塗られた「ふれふれ坊主」が登場するのが、作家・宇井無愁(1909-92)の小説集『接吻の履歴書』(資料㉓)。その名も「ふれふれ坊主」と題した一節があり、次のような記述が見られます[宇井1955:182頁]。

『(前略)……会社の女の子に聞くと、ふれふれ坊主をこしらえて雨の神様におねがいしたらよろしおまっしゃろいうのんで……』
『ふれふれ坊主て何やのん。』
『要するにてるてる坊主と本質においてはおんなじですねんけど、そいつに墨をぬるだけのちがいです。……(中略)……あれは頭を下にして、脳貧血みたいに逆立ちさせとくもんやそうでんな。……(以下略)』

 墨を塗ったうえで、逆さまに吊るすのがポイントのようです。
 雨だけでなく、雪が降るように願う「雪ふれ坊主」が見られるが、作家・森いたる(1913-)の童話『チコトン通信』(資料⑯)[森1955:12-13頁]。

京子さんなんか、ほら、あのひと、去年、雪の芸術展げいじゅつてんで、美空みそらひばりちゃんのかおつくって、一等だったでしょ。ことしも、はりきってるのに、ちっとも雪がふらないもんだから、紙でだるまさんこしらえて、のきにぶらさげてるんですって。
「なんのおまじない?」
って、きいたら、
「てるてるぼうずがあるんだから、雪ふれぼうずがあったっていいでしょう。」
と、すましているの。おかしいわねえ、雪ふれぼうずなんて。

 紙で作ったダルマを軒に吊るして、それを「雪ふれぼうず」と呼んでいます。

7、岡本太郎と平井英子

 最後に、てるてる坊主に関連して、芸術家・岡本太郎と童謡歌手・平井英子の名前が見られる事例を紹介しましょう。
 岡本太郎(1911-96)が登場するのは『東京玩具商報』45号(資料㉛)。岡本が東京玩具人形問屋協同組合で「今日の芸術」と題しておこなった講演の記録が掲載されています[『東京玩具商報』1955:82頁]。

大名とか、特権階級や、金持なんかのおもちやは知りませんけれど、いろんな大衆の中に生れた人形があるわけです。形はプリミティブですが、洗錬された形をもつたものよりも、もつとこう親しみを覚える。テルテル坊主のようなものの方が、ガラスの中に入れられた、うまくできた人形なんかよりも、親しみがもてる。見ているこちらの生命を、逆に、純粋に打つてくるものをもつている。

 てるてる坊主のような人形には、ガラスケースに収められた「うまくできた人形」よりも親しみを感じるといいます。そして、そうした人形はかたちこそ原始的ではあるけれども、見る者を「純粋に打つてくる」力をもっていると述べています。
 大衆のなかで生まれ育まれてきた人形たちは、見る者の魂に訴えかけてくる力を宿しているというのです。「いろんな大衆の中に生れた人形」の身近なわかりやすい例として、岡本がてるてる坊主を挙げているのが注目されます。

 いっぽう、平井英子(1918-2021)が登場するのは、日本放送文化協会発行の『放送』2巻5号(資料㉗)。「お好み芸能ガイド」欄で童謡歌手が特集されています。「戦前の童謡歌手の花形」の筆頭に挙げられているのが、当時はビクターに所属していた平井英子。
 そして、戦前の昭和10年代を振り返りつつ次のように記されています(読みやすいように改行を加えた)[『放送』1955:22-23頁]。

昔の童謡は歌の内容にもメロディにも、また歌そのものにも、商売や人気を抜きにした甘いユメがあったという。子供達ばかりでなく、家庭の誰もが歌ってたのしめるいい歌という考えが、言わず語らずのうちに聴く側にも歌う側にもあった。
昭和十年頃から支那事変にかけての童謡歌手最盛期の「てるてる坊主」(平井英子)や「青い目のお人形」(本居みどり)、「しゃぼん玉」(平山美代子)等のように誰にも親しまれ、今でも名曲として青壮年層の間にも馴染深く残っているものがある。

 昭和10年(1935)ごろからの数年間が童謡歌手の最盛期だったと位置づけています。子どもだけでなく誰もが楽しめるような名曲が多く聴かれたといい、その例としてやはり筆頭に挙げられているのが、平井英子の歌う「てるてる坊主」です。
 童謡「てるてる坊主」は大正10年(1921)に実業之日本社発行の雑誌『少女の友』誌上に発表されました。作詞は浅原鏡村(1895-1977)、作曲は中山晋平(1887-1952)。
 「童謡歌手最盛期」だった昭和10年代、平井英子が歌う代表曲のひとつとして、「てるてる坊主」はレコードやラジオ放送を通じて全国のお茶の間で親しまれたようです。さらには、それから10数年を経た昭和30年当時でも、成長した「青壮年層の間」に「てるてる坊主」は名曲として「馴染深く残っている」といいます。

 本稿は昭和30年のてるてる坊主をめぐる粗い覚え書きでした。もっと長い目で見た昭和30年代全般におけるてるてる坊主の動向については、また稿をあらためて検討できればと思います。

参考文献

【表1と表4に関わるもの】(発行年はいずれも昭和30年(1955)。丸数字は表の左端の№に対応。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。)
①石井庄司〔監修〕『よいこのことばのじてん』、さ・え・ら書房
②日本児童劇作家協会〔編〕『小学学校劇五十選』、あかね書房(桜井常之輔「夕やけ」)
③北町一郎〔著〕久米宏一〔絵〕『私は豆記者』、宝文館(「オデコと電話))
④丸本喜一〔著〕砂村秀治〔絵〕『一ねんのりか』、ポプラ社(「はれ あめ くもり」)
⑤日本学校劇協会ほか〔編〕『小学学校劇全集 よい脚本・たのしい演出』1年用、小学館(菊田要〔著〕藤城清治〔絵〕「あめふり(教室劇)」、斎田喬「ばらのさくみち」)
⑥サトウハチロー〔著〕渡辺三郎〔絵〕『ぼくは中学一年生』、宝文館(「雨まねき坊主」)
⑦『読切倶楽部』4(7)、三世社(「小ばなし 梅雨空の夢」)
⑧『一年ブック』5(4)、学習研究社(上田京子〔作〕河野きみ〔画〕「かぞえましょう」)
⑨与田凖一・佐藤義美『子どもにきかせる一日一話』、福音館書店(いわさきちひろ〔絵〕)
⑩菅井準一〔編〕横田昭次〔絵〕『なぜだろう・なぜかしら 理科の学校』1年生 上、実業之日本社(「てるてるぼうずを つくったら、あめが やすみますか」)
⑪『チャイルドブック』19(6)、チャイルド本社(林義雄〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑫『小三教育技術』9(11)、小学館(内木文英〔作〕「てるてるぼうず」)
⑬『新版しょうがくおんがくの本』3、二葉〈使用年度:昭和31年(1956)〉(「てるてる ぼうず」)
⑭『こども家の光』31(7)、家の光協会(江間章子〔作〕中村千尋〔絵〕「てるてるさん」)
⑮堀尾勉『子どもを愛した人びと』、実業之日本社
⑯森いたる『チコトン通信』、宝文館(「チコトン通信」)
⑰村井実・稲垣友美〔編〕『小学校社会科学習指導細案』1-2学年用、牧書店(「一年 26 えんそく」)
⑱猪股辰弥・西村省吾〔著〕『作文はこうして指導する』小学校3・4年用、光風出版(中村順子「お月見の晩」)
⑲堀七蔵『四年生のぎもん』天体・気象と人体、福村書店(「気象に関する疑問(天体・気象と人体の巻)」)
⑳『日本児童文化』5(5/6/7)、日本児童文化社(にしだみのる「てんじんさまのおまつり」)
㉑峰地光重〔編著〕『はらっぱ教室』、百合出版(「さくらと温度計」)
㉒豊田次雄ほか『幼児童話十二か月』、ひかりのくに昭和出版(「あしたは てんき」)
㉓宇井無愁『接吻の履歴書』、向楽社(「ふれふれ坊主」)
㉔久保田浩・森久保仙太郎〔編〕『教室の手帖』第1集、誠文堂新光社(まつやまかつこ「日日の記録」)
㉕萬緑運営委員会〔編〕『萬緑』10(2)、萬緑発行所(中村草田男「冬のまぶしさ」)
㉖『かぐのみ』復刊5(6)、かぐのみ社(小林幸子)
㉗『放送』2(5)、日本放送文化協会(「お好み芸能ガイド 童謡歌手」)
㉘『日本及日本人』6(8)、J&Jコーポレーション(「川柳日本抄」三浦以玖代)
㉙『新墾:短歌雑誌』25(8)、歌誌新墾発行所(瀬川美智子)
㉚サトウハチロー『踊るドンモ』、朝日新聞社(「14日+1日=半月ナリ」)
㉛『東京玩具商報』45、東京玩具人形問屋協同組合(岡本太郎「今日の芸術」)
㉜『天文教室』10(7)、生駒山天文協会(生駒山天文博物館 浜根「運を天にまかせて」)
㉝『天文月報』48(8)、日本天文学会(「月報アルバム 日食写真集」)
㉞『宗教公論』25(7)、宗教問題研究所(X・Y・Z「日食と祈り」)
㉟『覇王樹』35(5)、覇王樹社(吉田夏子)
㊱『文芸立川』12、文芸立川社(田中野武介「信吉物語」)
㊲『神道学』6、神道学会(相葉伸「日蓮の善神捨国論の構造と天にのぼる神の民俗」)


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