昭和30年代のてるてる坊主(前編)——姿かたち・目鼻・文字をめぐって――【てるてる坊主考note#37】
はじめに
昭和32年(1957)に平凡社から発行された『世界大百科事典』をひも解くと「照々坊主」の項が設けられており、次のように説明されています[『世界大百科事典』1957:203-204頁]。
この「照々坊主」の項の執筆担当者は小高吉三郎(1885-1964)。新聞記者を務めたのちスポーツ評論家として知られ、昭和18年(1943)には『日本の遊戯』という書物をまとめている人物です。
平凡社の百科事典ならば、記載内容に信頼を置いてよいでしょう。てるてる坊主についても、当時の一般的な像が反映されているはずです。
そうしたなか、わたしが気になったのは、先に掲げた説明のなかの「白紙の坊主の首に色紙の着物をきせ」という記述。昨今のてるてる坊主の姿を思い浮かべてみると、裾をひらひらとさせたスカートのような姿をしています。百科事典の説明のような「色紙の着物」を着てはいません。
先述のように、平凡社の『世界大百科事典』が発行されたのは昭和32年(1957)のこと。いまとは違って、はたして当時のてるてる坊主は、色紙で作った着物を着た姿が一般的だったのでしょうか。
本稿では、昭和30年代のてるてる坊主の姿に眼を凝らしてみましょう。
1、これまでの試行錯誤
かつて、文献資料に登場するてるてる坊主について、昭和39年(1964)から昭和30年(1955)まで1年ごとにさかのぼりながら、全10回にわたって検討を加えました(★詳しくはマガジン「昭和30年代(1955-1964)のてるてる坊主たち」の各記事を参照)。
文献資料を収集するにあたり、たいへん役立ったのが国立国会図書館のデジタルコレクション。キーワードを入力して年代別に検索できるのでとても便利です。ただし、てるてる坊主について検索しようとする際に厄介なのは、その呼び名や表記が多様である点。
時代によっては「てるてる」ではなく「てりてり」が、あるいは「坊主」ではなく「法師」が、より一般的な呼び名として用いられていた期間があります(もとより、本稿で対象とする昭和30年代は、すでに「てるてる坊主」が一般的な呼び名となって久しい時代です)。
さらには、平仮名と漢字に加えて、ときには片仮名もまじえつつ、表記のされかたもまちまちです。そのため、予想されるさまざま組み合わせを試しながら、検索を繰り返しました。
また、国立国会図書館デジタルコレクションのなかには、同館(東京都千代田区)へ直接に出向かないと閲覧できない「国立国会図書館内限定」の資料があります。たとえば、昭和39年(1964)の1年間に絞ってみても、わたしの管見が及んだ限りで94点ほどが、そうした館内限定資料に該当します。いまは館内限定資料についてはいったん考慮の外においておき、インターネットを活用して自宅で閲覧可能な資料について、ジャンルを問わず検討対象としましょう。
それでは、いまからおよそ60~70年さかのぼった、てるてる坊主のある光景へ。
2、着物姿とスカート姿
本稿でまず検討対象とするのは、当時の絵や写真に登場するてるてる坊主。検討の切り口とするのは、「姿かたち」「目鼻の有無」「文字の有無」の3点です。
第一に姿かたちをめぐって。先述のように、昨今のてるてる坊主は、裾をひらひらとさせたスカートのような姿をしています。昭和30年代のてるてる坊主も、そうしたスカート姿のものがほとんどでした。しかしながら、平凡社『世界百科事典』の説明にあったような、着物を着た姿のものも散見できます。着物姿のものとスカートすがたのものの事例数を1年ごとに比較してみましょう。 (★表1参照)。
注目したいのは着物姿のものの増減。昭和30年から35年までの6年間、着物姿のものはコンスタントに複数見られます。とりわけ、33年には着物姿のものが目立ち、スカート姿のものと数の上では拮抗しています。
ただし、その前年の32年には、着物姿は2例しかありません。しかも、その2例がともにスカート姿のものとの併存であり、着物姿単独という事例はありません。
昭和30年代の後半になると、36年と38年には着物姿のものはありません。39年も1例のみで、それもスカート姿との併存です。そうしたなかで、着物姿がまったく見られない36年と38年に挟まれた37年には、着物姿単独のものが2例見られるのが目立ちます。
ともあれ、着物姿のものは昭和35年ごろから急に少なくなっている傾向が見て取れます。
3、姿かたちの過渡期の片鱗
昭和30年代全般をとおした特徴として、1枚の絵のなかに、着物姿のものとスカート姿のものが併存して描かれている例がしばしばあります。前掲した表1において△印で示したのが、着物姿とスカート姿が併存している事例です。
たとえば、昭和30年の1年間だけでも、そうした例が4例も見られます(★後掲の図1参照)。このように、着物姿とスカート姿が併存している例が多く見られるのも、姿かたちが移り変わる過渡期の特徴といえそうです。
かつて、姿かたちの変化に注目して、てるてる坊主が着物姿から昨今のようなスカート姿へと移り変わった時期は、昭和30年代の前半なのではないかと推測しました(★詳しくは「【てるてる坊主動画#2】忘れられたてるてる坊主 ―かつて見られた着物姿をめぐって―」参照)。
しかしながら、今回あらためて検討しなおしてみたところ、昭和30年代の序盤にあたる30~32年には、すでに着物姿よりスカート姿のほうがだいぶ優勢です。どうやら、着物姿からスカート姿への移り変わりは、かつて推測した昭和30年代前半よりもう少し早く進行が始まったようです。
こうなってくると、さらにさかのぼった昭和20年代のてるてる坊主の姿かたちが気になるところ。また稿をあらためて検討できればと思います。
4、目鼻の有無
第二に目鼻の有無をめぐって。わたしたちが普段、てるてる坊主を作ろうとするとき、あるいは、てるてる坊主の姿を思い浮かべるとき、その顔には目や口などのパーツがあるでしょうか。
昭和30年代のてるてる坊主はどうだったのでしょう。眉や目・鼻・口など顔のパーツのいずれかがあるものと、目鼻がないのっぺらぼうのものにわけて、事例数を1年ごとに比較してみましょう (★表2参照)。
大半の年で目鼻のあるものが優勢です。昭和30年と37年だけ、目鼻のあるものと目鼻のないものが数の上では拮抗しています。大まかに見ると、目鼻のないのっぺらぼうのものは、34年ごろから急に少なくなっている傾向が見て取れます。
目鼻のないのっぺらぼうのものの1年平均での事例数を計算すると、昭和30~33年の4年間では7.2例。いっぽう、34~39年の6年間では2.8例と激減します。
付け加えておくと、目鼻のあるてるてる坊主のなかには、顔が「へのへのもへじ」のような平仮名で描かれたものが散見できます。昭和31年、33年、37年、39年に1例ずつ、合わせて4例です(★図2参照)。
5、本来はのっぺらぼう
ところで、昭和11年(1936)に発行された平凡社の『大辞典』で「照々坊主」の項をひも解いてみると、願いがかなった場合の作法について、以下のように記されています。執筆担当は冒頭の平凡社『世界大百科事典』でも登場した小高吉三郎[下中1936:402頁]。
てるてる坊主へのお礼の作法には時代によって変遷があったようです。「古」と「現時」は瞳を書き入れ、そのあいだの「後世」には神酒を供えたうえで川に流したといいます。
もっとも、「古」「後世」「現時」がそれぞれいつの時代を指すのかは明らかではありません。先述したように『大辞典』が発行されたのは昭和11年。川に流す作法が見られた「後世」とは当時(「現時」)よりひと昔前の明治・大正期あたり、それ以前に瞳を書き入れる作法が見られた「古」とは江戸時代あたりでしょうか。
いずれにせよ、「古」には瞳を書き入れる作法が見られたということは、どうやら、目鼻がないのがてるてる坊主の本来の姿のようです。
昭和30年代に限ってみると、目鼻のないのっぺらぼうのものは、先述のように34年ごろから急に少なくなる傾向があります。それ以前の33年ごろまで目鼻のないのっぺらぼうのものが比較的多く見られたのは、「古」の名残でしょうか。
ここでもやはり、さらにさかのぼった昭和20年代のてるてる坊主の姿が気になります。
6、文字の有無
第三に、書き込まれた文字の有無をめぐって。てるてる坊主の衣の部分に文字を書き入れる作法は、わたしの管見が及んだ限りでも、近世から近代・現代を経て昨今までしばしば見られます(★詳しくは「【てるてる坊主動画#4】てるてる坊主に文字を書くこと―近世・近代編—」、および、その続編「【同#5】―現代編—」参照)。
昭和30年代のてるてる坊主はどうだったでしょう。文字が書き込まれている事例の数を1年ごとに並べてみましょう (★表3参照)。
昭和30年から35年までの6年間、文字がある事例がコンスタントに見られます。とりわけ、35年には4例も見られます。しかしながら、翌36年以降は急減して、36~39年の4年間では38年の1例のみです。
文字があるものの1年平均での事例数を計算すると、昭和30~35年の6年間では1.8例。いっぽう、36~39年の3年間では0.3例と激減します。
文字のある事例が目立つ昭和30年から35年までの6年間においても、11例のうち過半数の6例では、文字のあるものとないものが併存して描かれています。
注目しておきたいのは、文字のあるてるてる坊主を描いた画家たち。文字のある12例のうち複数例を描いている画家が3人います。鈴木寿雄(1904-75)、林義雄(1905-2010)、岩崎ちひろ(1918-74。表記は原文のママ)です(★表4参照)。
この3人を含め、表4に挙げた全員が明治・大正期の生まれです(②の中村千尋は生年不詳、⑤は画家不明)。画家たちがてるてる坊主に親しんだであろう幼少期は、てるてる坊主に文字を書き込む作法が盛んな時代だったのかもしれません。
7、書き込まれた文字
書かれている内容に注目してみると、「てる」を繰り返している事例が目立ち、12例のうち8例(①②⑤⑦⑧⑨⑩⑫)に見られます(★後掲の表5参照)。⑨では見えている面だけで8か所以上も書き込まれています(★後掲の図3の右)。
「てるてるぼうず」という名前が見られるのは2例(⑥⑩)、あるいは、「あしたてんきに」という願いが込められた事例は5例(③④⑥⑩⑪)あります。「あしたてんきに」に続く語尾は「しておくれ」が5例のうち4例(③④⑥⑩)を占め、そのほかには「なあれ」が1例(⑪)だけ見られます。
文字の書きかたにも眼を凝らしてみましょう。黒のほか、赤や青、橙、緑といった色を使って書かれている場合も4例あります(前掲の表4参照)。ただし、文字を色付きに描いているのは、鈴木寿雄(⑧⑨)と林義雄(①⑦)の2人に絞られます。林義雄が描いたうちの1例(⑦)では、めずらしいことに衣ではなく頭部に「てる」と書き込まれています(★図3の左)。
また、「てる」という2文字のうち、どちらか1文字が隠れている事例がふたつあります。ともに着物型の事例です。ひとつめは②で、袖に「る」だけが見えます。おそらく、袖の背中側に「て」と書いてあるのでしょう(★前後の図1の右)。もうひとつは⑨で、胸元に「て」だけが見えます。おそらく、帯で隠れた部分に「る」と書いてあるのでしょう(★前掲の図3の右)。
なぜ文字の一部が隠れてしまったのか、その理由に思いを巡らせると、作りかたの順序が浮かび上がります。おそらく両者の事例ともに、姿かたちの完成後に文字を書いたのではなく、姿かたちを整える前に文字を書いたのでしょう。
②の場合には、着物に文字を記入したのち、折って袖などのかたちを整えたようです。また、⑨の場合にも、着物に文字を記入したのち、上から帯を締めたのでしょう。
おわりに
てるてる坊主研究所で蒐集してきた文献資料のなかから、昭和30年代のものに対象を絞り、とりわけ本稿では当時の絵や写真に登場するてるてる坊主に注目しました。検討の切り口としたのは、「姿かたち」「目鼻の有無」「文字の有無」の3点です。
昭和30年代という限られた期間内においてさえ、「姿かたち」「目鼻の有無」「文字の有無」の3点それぞれに、顕著な傾向を見て取ることができました。1年平均の事例数の変化を計算してみましょう(★表6参照)。
「姿かたち」で注目したのは、昨今のようなスカート姿ではなく着物姿のもの。昭和30~34年の5年間では4.6例(小数点第2位以下を四捨五入。以下同じ)。その後、35~39年の5年間では1.0例と激減しています。
「目鼻の有無」で注目したのは、目鼻のないのっぺらぼうのもの。昭和30~33年の4年間では7.2例を数えますが、34~39年の6年間では2.8例と激減します。同様に「文字の有無」では、文字があるものに注目すると、昭和30~35年の6年間では1.8例ですが、36~39年の3年間では0.3例まで減ります。
そうなると、「姿かたち」「目鼻の有無」「文字の有無」のあいだに相関関係がありはしないかと期待してしまいます。ただ、そううまくはいかないようです。
たとえば《「姿かたち」と「文字の有無」》の関係をめぐって。昭和30年の文字のある事例2例(前掲の表4の①②、図1の左下と右)はともに、着物姿とスカート姿が併存しており、なおかつ、文字のあるものとないものも併存しています。そうしたなか、文字があるのはいずれも着物姿のほう。スカート姿のほうには文字はありません。一見すると、着物姿と文字のあいだに強い相関関係が感じられます。
しかしながら、そうともいえない事例もふたつ。昭和33年の⑤(★後掲の図4参照)は、やはり、着物姿とスカート姿が併存していて、なおかつ、文字のあるものとないものも併存しています。そこでは、文字があるのはスカート姿の2体のほう。いっぽう、着物姿の2体には文字がありません。
また、昭和35年の⑩(★後掲の図5参照)では、着物姿1体とスカート姿2体が描かれています。着物姿の1体に文字があるほか、スカート姿2体のうちの1体にも文字があります。描いたのは岩崎ちひろ。
先ほど、文字のある事例を複数描いている画家として岩崎ちひろのほか、鈴木寿雄と林義雄の名前を挙げました。この3人が描いた事例に目を凝らしてみても、文字のあるてるてる坊主は、着物姿であったりスカート姿であったりとさまざまです(前掲の表4参照)。
こうなると、《「姿かたち」と「文字の有無」》のあいだに相関関係を認めるのはむずかしそうです。同様に《「姿かたち」と「目鼻の有無」》のあいだ、あるいは《「目鼻の有無」と「文字の有無」》のあいだをめぐっても、残念ながら目立った相関関係はないようです。
ともあれ、「姿かたち」「目鼻の有無」「文字の有無」のいずれに関しても、昭和30年代半ば(33~36年)を境として顕著な変化を確認することができました。気になる昭和30年代以前のてるてる坊主、とりわけ、直近の昭和20年代のてるてる坊主について、稿をあらためて検討できればと思います。
その前にまずは昭和30年代のてるてる坊主をめぐって、本稿で触れる余裕のなかった「呼び名」「作る機会」「材料」「設置場所」「設置方法」「効力アップの工夫」「お礼と罰」といった点について、引き続き次回以降で検討してみましょう。
参考文献(うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等)
【図1】(書名・編著者名等の五十音順)
・『こども家の光』31(7)、家の光協会、1955年(江間章子〔作〕中村千尋〔絵〕「てるてるさん」)
・『チャイルドブック』19(6)、チャイルド本社、1955年(林義雄〔絵〕「てるてるぼうず」)
・日本学校劇協会ほか〔編〕『小学学校劇全集 よい脚本・たのしい演出』1年用、小学館、1955年(菊田要〔著〕藤城清治〔絵〕「あめふり(教室劇)」、斎田喬「ばらのさくみち」)
・与田凖一・佐藤義美『子どもにきかせる一日一話』、福音館書店、1955年(いわさきちひろ〔絵〕)
【図2】(刊行年順)
・『あこがれの星』(まんが物語81)、きんらん社、1956年(三島みちひこ〔作・絵〕「てるてるぼうず」)
・腰山太刀男ほか〔編著〕『ふしぎだ・はてな?』1年・上(理科・社会科学習文庫)、高橋書店、1958年(「あめと くもの ふしぎ」)
・『こども科学館』23、国際情報社、1962年(陣内利之〔作・絵〕「カンちゃんのテルテルぼうず」)
・木暮正夫〔著〕福田庄助〔絵〕『赤とんぼの歌』(日本少年文学選集9)、三十書房、1964年(「屋根」)
・『小学館の幼稚園』17(3)、小学館、1964年(松沢のぼる〔絵〕「てるてるぼうず」)
【表4と表5】(刊行年順)
①『チャイルドブック』19(6)、チャイルド本社、1955年(林義雄〔絵〕「てるてるぼうず」)
②『こども家の光』31(7)、家の光協会、1955年(江間章子〔作〕中村千尋〔絵〕「てるてるさん」)
③岡本良雄〔著〕川本哲夫〔絵〕『よい子の童話』2年生、鶴書房、1956年(「あしたは てんきだ」)
④坪田譲治〔監修〕柿本幸造〔絵〕『日本の名作童話』一年の学習文庫8 国語編、学習研究社、1957年(岡本良雄「あしたは天気だ」)
⑤腰山太刀男ほか〔編著〕『ふしぎだ・はてな?』1年・上(理科・社会科学習文庫)、高橋書店、1958年(「あめと くもの ふしぎ」)
⑥『ひかりのくに 生活習慣と社会性が身につく』13(6)、ひかりのくに、1958年(増子とし〔作詞〕本多鉄麿〔作曲〕岩崎ちひろ〔絵〕「あまだれぽったん」)
⑦『よいこ』4(3)、小学館、1959年(林義雄〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑧『童謡画集』3、講談社、1960年(鈴木寿雄〔絵〕「てるてるぼうず てるぼうず」)
⑨『よいこ』5(3)、小学館、1960年(鈴木寿雄〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑩『標準小学生の音楽』3、教育出版、1960年〈使用年度:昭和36~39年(1961~64)〉(岩崎ちひろ〉〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑪『三年生のおんがく』、教育芸術社、1960年〈使用年度:昭和36~40年(1961~65)〉(駒宮録郎〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑫与田準一〔著〕風間四郎〔絵〕『ちくたくてくさん』、ポプラ社、1963年(「うんどうかい」)
【図3】
・『よいこ』4(3)、小学館、1959年(林義雄〔絵〕「てるてるぼうず」)
・『よいこ』5(3)、小学館、1960年(鈴木寿雄〔絵〕「てるてるぼうず」)
【図4】
・腰山太刀男ほか〔編著〕『ふしぎだ・はてな?』1年・上(理科・社会科学習文庫)、高橋書店、1958年(「あめと くもの ふしぎ」)
【図5】
・『標準小学生の音楽』3、教育出版、1960年〈使用年度:昭和36~39年(1961~64)〉(岩崎ちひろ〉〔絵〕「てるてるぼうず」)
【そのほか】(書名・編著者名等の五十音順)
・小高吉三郎『日本の遊戲』、羽田書店、1943年
・下中弥三郎〔編〕『大辞典』第18巻、平凡社、1936年(小高吉三郎「照々坊主」)
・『世界大百科事典』第20 (ツナートイ)、平凡社、1957年(小高吉三郎「照々坊主」)
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