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★キャンピングカー生活まであと131日★「親の存在」

あした何の日?

おはようございます。
来週、実家に3日間帰ることにしました。

東京と大阪は新幹線の便がよく、実家に帰る機会は多いです。
実際、今年も今回を入れて3回ほど帰省しています。

毎回別で関西方面に用事がある時に帰るので、帰省というより「立ち寄る」感じで実家にいることが多いです。

しかし今回はただ漠然と、しかしハッキリと「実家に帰りたい」と思ったんですよね。
その理由って何だろうと思い、今回noteで考えてみることに。

まず、今回実家に帰りたいと思った時の自分の精神状態を考えてみよう。

無気力だった

「何もしたくない」「やる気が起こらない」「生活に満足感がない」といったようなエネルギーの少ない状態が続いていました。
特に何か嫌なことや悲しいことが起こったわけではないけど、月に1回ぐらい突如やってくる自失感。

そして行動量が減るので、更に精神は閉塞感を伴ってどんどん暗くなる。
最近になって「あぁ、今月も来たか」と冷静に客観視できるようになってきましたが、未だコントロールはできていません。

その他、私を取り巻いていた状況。

家の片付けをした

無気力で家の外に出る気分になれなかった私。
普段は出かけたり人と話して刺激を得て復活するのだけど、今回はそれも厳しかった。

なのでせめて家の中でできることをしよう、と思って大掛かりに部屋の掃除、整理整頓をした。

その一環で断捨離もした。
古くなった服、置いてても仕方ないお菓子類、書類。
服なんかは、もう自分は使わないけど捨てることには少し抵抗がある。
せめて売れないか、とかも思ったけど、今はそこに時間を割くべきタイミングじゃない気がして。

来年からのキャンピングカー生活に向けて、手回品を減らすことも大事。ミニマリストに向けてどんどん使うものを限定することは一つのテーマ。

だけどどうしても捨てるわけにはいかないモノもある。
そういったモノは一旦、実家に持って帰るようにしている。だから今回も、大量に実家にモノを持って帰る。

周りで帰省している人

たまたま、自分の知り合いに帰省している人がいた。
実家や親について呟いたりしていた。それがある意味刺激になって。
また、お盆は実家に戻れなかったので(その時は帰省する予定もなかったけど)、今回その埋め合わせじゃないけど、帰っちゃおうと思った。

周りで親の介護をしている人

無気力になる少し前、ある人と対話をした。
母親が癌になって、療養のために世話をしているらしい。
それでもアメリカに連れて行ってあげたり。
私には立派な親孝行に感じた。
そういうことも「遅かった」と思う前にやりたいなぁって。


私には兄弟がいない。
それもあってか、ありがたいことに、愛は十分に注いで育ててもらったと思う。
というか、むしろ甘やかされすぎたと思う。

子供目線での細かな不満はあったけど、私のわがままもかなり受け入れてもらっていた。

それでも私は感謝するどころか「こんな親になるもんか」と思っていた。今になってありがたいと思うことは当たり前なんだと思っていた。
喧嘩も何回もした。口をきかない期間が何年も続いたこともあった。

生まれて22年4ヶ月が経って、初めて実家を出た。
それまではあまり感じなかったことも、考えさせられるようになった。

今まで親に感謝をしたことがなかったけど、自分が大人になって初めて親の偉大さを感じた。
ありがたかったんだなぁって。
なんで子供の頃は気づけないんだろう。

両親はすでに60歳を過ぎている。
なのに母方の両親の介護もあり、大変そう。
もしかしたら実家に戻ってこいと言われるかもしれない。
その時は今までの恩返しも兼ねて、実家に戻ることを受け入れようと思っていたりする。
今は自分の日本一周、移住計画とせめぎ合いの中。

「恩返し」

かつて私はこの言葉が嫌いだった。
自分を綺麗に見せようとするヤツが使う、お飾りの言葉だろ。
そう思っていた。

自分を擁護するわけじゃないけど、こう思うのは仕方なかった気もする。
恩を恩だと感じられていなかったから。
当たり前だと思っていたから。

しかし恩を恩たらしめるかのように、自分の思考がじわじわ変わってきたら、今までの人生が走馬灯のように蘇ってきて。

親が自分にしてくれたことは数え切れないほどあるのに、私は今まで一体何ができただろう?ーーー何もできていない。

今まで私にどういう感情で接してきたんだろう?
恩を仇で返してきた私に何を思っていたんだろう?

考え始めたら胸がいっぱいになってきた。

自分の視点が俯瞰的になり。精神が成長したといって喜べばいい?
だけど素直に喜べない。

前を向きたい。
それでも過去を見てしまう。
どうして親の存在を深く考えられなかったのか。
どうして親の立場で考えることをしなかったのか。

どうして。

そのワードとともに後悔ばかりが募る。

自分が親になったらどうなるんだろう。

「こんな父親になりたい」と思うことは今までも何回かあった。
でもそれは父親を反面教師だと考えていた時代の思考による。
(だから特に父親とはずっと相容れなかった)

間違いなく、今考える「理想の父親像」は変わっているはず。

今なら父親の良かったところが見える。
自分が父(=実父)になれない理由も分かるし、父が私になれない理由も分かる。

価値観の違い、時代の違い、趣味の違い、趣向の違い、思考の違い、表現の違い。
「親」だけじゃなく「一人の人間」という側面も持つことを知った。

子供でいると「親はこうあってほしい、こうあるべき」と無意識に考えるのだろう。

隣の芝生は青い。テレビやSNSで人気の父親像なんかを見ると羨ましく感じたりもした。
でもそれは、そういう人がたまたま父親やってるだけであって、親の姿に理想も正解もない。

その羨望を自分の親に当てはめること自体ズレてた。

親である前に一人の人間。
そう思うことができれば、色々と認め、飲み込むことができる。


話は戻ります。

今回の帰省は漠然だけど「親に会いたい」という気持ちが強く出たのが、普段と違う点。

実家の安心感は、人生でずっと持ち続けられるものではない。
悲しいけど、いつか親は死ぬ。
居心地の良さは有限だということ。
帰る場所があること自体が奇跡だということ。

そう思うと、親のためにも、自分のためにも。
帰れる時に帰っておくこと。もしくは出来るだけ近くにいることは、自分の中の優先順位でかなり上位に来ることだと思えてきた。

あなた2人の残された人生で「あなたが息子でよかった」と何回も言わせたい。それを何回も聞きたい。

あなたのためじゃなく、私たちのための、恩返しを。

<<<あと132日>>>
どうせ終わるのなら、精一杯もがき生きる。

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