私は答えの出ないことを考える
耳が聴こえなくなったら、目が見えなくなったら、声が出せなくなったら、歩けなくなったら、手がなくなったら。
私は、健常者だ。耳も聴こえる。目も見える。歩ける。喋れる。
それでも考えることがある。「いつか失うかも知れない」と。
漫画の話だが、『リアル』や、『聲の形』なんかは、そんな私の「昔からの疑問、不安」をより鮮明にしてくれた。
最近だと、映画『サウンド・オブ・メタル』が聴覚障害。昔だと、ドラマ『1リットルの涙』が運動障害を扱った作品だ。
これらの作品に共通して言えることは「おもしろい」ということだろう。
しかし、そんなことを言うのは些か不謹慎にも思える。
私が子供の頃、音楽が好きだったのもあり、当時出たてだった「iPod Classic」が欲しかった。
それをネトゲで交流があった友人に話したところ。「いらない」と言われた。
当時の私はその言葉に激怒したが、彼は聴覚障害者だった。
彼にとって「ミュージックプレイヤー」は「いらない」ものだった。
私はそれから考え続けている。「聞こえるということ」、「聞こえないということ」がなんなのか。
まさに『サウンド・オブ・メタル -聞こえるということ-』だ。
私の友人に子供が産まれた。聴覚障害者だった。
友人は音楽が好きだった。
私の友人は、足が不自由だ。
私の友人は、目が不自由だ。
私の友人は、私の友人は。
私は、なにも不自由じゃない。
足も動くし、耳も聴こえる。目だって見えるし、口だってきける。
そんな私が、そんな彼等のことを考えるのは、不謹慎だろうか。
考えるだけ無駄かも知れない。それでも考えるのをやめられない。
私の話じゃない。でも、もしかしたら明日、耳が聴こえなくなるかも知れない。
その時、私はなにを思うだろうか。なにを考えるだろうか。
そんな想像は無駄だろうか。
いつ出会うかわからない。もしかしたら出会わないかも知れない。
それでも、いつかのために準備しておきたい。
目を背けて、見ないようにするのも間違いじゃない。
直視して、周りの目を背けている人達に諭そうとするのも間違いじゃない。
目の前にして、逃げ出すのも間違いじゃない。
ただ、わからないことを否定して投げ出してしまうことは愚かだ。
答えが出ないことを考えない。自己否定しない。辛いことからは逃げる。
悪いことじゃない。でも、良いことだとは思わない。
私は、正しさなんて知らない。
誰かが間違ってるかなんて知らない。
ただ気に食わない。好きじゃない。好まない。道理じゃない。と思っているだけだ。
私は、私の不都合を隠す。私の不利益を避ける。
ただ考える。
なにが正しいか。
結論は出ない。結果はわからない。答えなんて存在しない。
それでも考え続ける。考えないことはできない。
好きでやってることだ。趣味みたいなもんだ。
もし、ほんの少しでも興味が出たなら、自分なりに考えてみてほしい。
答えを出す必要はない。ただ今回勧めた映画なり、漫画なりを観るだけでもいい。
少しだけ心が豊かになれるかも知れない。
なにも考えないで生きるのは難しい。
なら、いっそ。考え続けて生きるのも悪くない。
精神的に辛いかも知れない。間違ってしまうかも知れない。
知らん。そんなことはまた考えればいい。
精神的に辛いのはなぜか。辛いとはなにか。間違ってしまったのはなぜか。間違いとはなにか。
考え続けるだけ。
友人は大切に。
然様然らば是にて御免。
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