私なりの絶望の震災 1
行き詰まっていた。
仕事もプライベートも、そして人生全体が。
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この記事は前後関係が激しく入り乱れることをご承知おき願いたい。
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東京本社で働いていた8年前の2012年冬。
着任して2ヶ月しか経っていなかったが、人生で初めて経験する劣悪なパワハラを含む職場環境と慣れない都会暮らしに私は心身ともに憔悴しきっていた。
生まれ育ったのが東北、新卒で最初に配属されたのが東北、結婚したのが東北、そういう牧歌的テレビもねぇ田舎っぺの私にとって、
・旧帝大出身のとんがってぶっとんだオカマの部長(身長190cm)
・北国出身のオラオラヤンキー次長
・関西出身のオタク系スパコン級天才課長
・九州出身の体育会脳みそ筋肉課長
といった面々に囲まれて過ごす日々は想像を絶するものだった。仕事の内容はそれほど難しくはないのだが、主にコミュニケーションの面で「ついてゆくのがやっと」。あまり認めたくはないが、自分の能力不足もあるだろう。いずれにしても自分が(相対的に)周囲とズレて行っているなぁということを毎日少しずつ感じていた。
埼玉の社宅から港区の本社まで、通勤時間は最短で片道1時間30分かかった。入社してから15年間、37歳になるまで地元で勤めた職場は、何度か店舗を異動はしたものの全て自宅からマイカーで片道30分未満で通勤できる距離だった。
電車通勤がそもそも生まれて初めての37歳。
会社に着く頃には1日の体力が3割くらい削がれている37歳。
iphoneの万歩計が生まれて初めて「毎日1万歩」をマークする37歳。
もう37歳なのに、会社に行くと理由なき罵倒を浴びせられる37歳。
そういう何もかもが初めての経験となる疲労困憊の37歳の一年だった。
JR利用だけでは2時間もかかる通勤行程(※これは地方の車社会で暮らす社会人には考えられない距離感である。きっと都会の人にはわからない)なので、少しでも時間を短縮するため月に1万円強の身銭を切って東京メトロを利用していた。それで30分の時間短縮と座席シートを勝ち取った。毎日片道1時間30分の通勤だった。
這うようにしてやっとたどりつく会社で日々起きたことの詳細は、機会があれば別に記事にしようと思う。
言葉にし難い鬱屈をかかえた37歳は半年も経たないうちに心身を打ちのめされ心身に支障をきたし、晴れて会社の産業医とそれに勧められる町医者の世話になることになった。
産業医に促されるまま、すがるような気持ちで門を叩いた心療内科(最初は神田、そこがまったく役に立たず次に移った診療所は表参道だった。結論から言うとどちらもロクでもない開業医だった。)で、私は「抑うつ状態」と診断された。はいはいよくわかりますよ。つらかったですねぇ。深呼吸の方法を教えてあげましょう。薬をどっさり飲みましょうね。
その後、数年に渡って合計で5軒程度の医者に診てもらったが、どこの心療内科でも対応はほぼ同じだった。カウンセリングもほどほどに、とにかく眠剤と向精神薬を適当に処方されるといった対応ばかり。
患者の話に耳を傾ける医師はほとんどいなかった。
(ああ、きっと自分はあのとき、とにかく話を聞いてもらいたかったんだなとこれを書いていて気づいた。これから似たような境遇の人と対峙することがあれば出来る限り話を聞こうと思う。)
なんども通わないうちに病院に行くのが嫌になってしまった。
会社に相談するとその数ヶ月後に、ど田舎に左遷された。本人が承知するなら発令する、と事前に意向確認をされるマイルドな左遷だった。
本社勤務がちょうど1年を迎えようかという頃、2013年冬の初めの出来事だ。
つづく
Photo by Ryo Yoshitake on Unsplash
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