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日本史 / ホツマツタヱ -縄文時代中期-

こんにちは、TOYOです。
私たちの祖先である縄文人と、「縄文時代」と呼ばれるその時代の背景はどのようなものだったのでしょうか?

学校では、縄文人は動物の毛皮を着て、槍を持って狩猟していたと教えています。しかし、実際はまったく違います。
今回は、古代の日本の成り立ちが書かれた、古事記や日本書紀よりも古い文献と言われる「ホツマツタヱ」を通して、縄文時代中期がどのような時代だったのかを考察してみたいと思います。

日本史 / ホツマツタヱ -縄文時代中期-

国常立神社

縄文時代の文字である、ヲシテ文字で古代の日本の成り立ちが書かれた
「ホツマツタヱ」には「アマカミ(天神)」と呼ばれる人たちが出てきます。
アマカミは、古事記・日本書紀に登場する神々であり、地上に肉体を持って現れた指導者たちです。天皇以前の、古代の天皇のような存在です。

アマカミとは、じつは縄文人の祖先、レムリア人であるムーの人たちを洪水から救い、後の縄文人のそばに常にいる存在だったドラコニアン (龍族) のことです。
彼らは後に「龍神様」とも呼ばれるようになりました。

「ホツマツタヱ」は、「天之御中主神(アメノミナカヌシ)」の子で、日本を作った「国常立命(クニトコタチノミコト)」から始まります。
国常立命が最初に作った国が、常世国(トコヨクニ)です。
研究から、初代天皇である国常立命は古代日本に実在した人物であると考えられています。

国常立命の時代は、縄文時代中期にあたります。
この頃、縄文人たちはそれまで住んでいた洞窟を出て、日本列島各地にたくさんの村を作りました。
縄文時代の人々は、現代の私たちとはまったく違う概念を持っていました。
それは、彼らには「所有」という概念がなかったのです。

すべてのものは、「神から借りているもの」という考えを持っていました。
そのため、土地や食べ物を得るための争いもないので、愛と調和に満ちた平和な社会が、約1万4千年間も続いたといわれています。

三内丸山遺跡

青森県に「三内丸山遺跡」という大規模集落跡があります。
三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉の集落跡です。

彼らの生活の基盤となっていたのは、植物でした。
三内丸山遺跡では、栗の木で大木が作られています。
どうやら縄文時代中期の食べ物の主食は、木の実だったようです。
特に栗やクルミなどが主食だったのです。

彼らは動物の肉を食することなく、基本は栗などの木の実や貝などが主な食物でした。各地に貝塚があるのはそのためです。

縄文時代から江戸時代までの日本の食文化は、動物の肉を食べることはなく、基本、食事はずっと植物系が主でした。

約1万年以上続いた縄文文明は、植物中心の文明だったと考えられます。
そこから天皇家としての年中行事なども生まれてきたのだと思います。
日本人の和の文化もそこから生まれてきたのでしょう。

樹木に光合成が起こると、ブドウ糖ができます。木はそのブドウ糖を根から土へと流します。土の中にいる微生物はブドウ糖を栄養素として土の中にあるミネラルを溶かし、それをまた木に与えることで木は育ちます。そしてまた、木の実を落としてくれます。

縄文人たちは、そのような自然の循環を知っていました。これが「和の文化」の始まりです。

竪穴式住居

竪穴式住居

国常立尊を中心とした縄文人たちは、植物や土などの自然を崇拝し、大切にしていました。

そのため、自然を破壊しないように、初期の縄文人たちは洞窟などに住んでいました。しかし、中期になると竪穴式住居を作って生活するようになりました。

神代文字(かみよもじ)

神代文字

日本最古の文字をご存知でしょうか?
「神代文字」というもので、かみよ文字、または、じんだい文字とも呼ばれますが、正しい読みは「かみよ文字」の方です。

これは、景行天皇の時代(1世紀)に使用された「ヲシテ文字」と呼ばれる神代文字の一種です。
この文字は「ホツマツタヱ」「ミカサフミ」「フトマニ」という3つの文献に出てくる文字です。

このヲシテ文字こそが、世界の文字のルーツであるかもしれません。

「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十」は
「ヒ、フ、ミ、ヨ、イ、ム、ナ、ヤ、コ、ト」と読みますが、
一文字一文字に、それぞれ意味があります。

天皇は、このヒからトまでのすべてを知る者です。
それを知ることが出来る天皇こそが、「ヒト」と呼ばれました。
現在の天皇のお名前にも「裕仁、明仁、徳仁…」とヒトが付いていますね。

ヒからコまで知る者は、「彦(ヒコ)」という文字が名前に付けられています。

ホツマツタヱの五大元素

埴輪の土偶

ホツマツタヱでは、ヲシテ文字で5つの元素が書かれています。
ウツホ、カセ、ホ、ミツ、ハニという5つの元素があります。これらはすべて植物に関係しています。

ハニというのは「土」を表します。これは「ハニワ」のハニです。
そのため、彼らは土も大切にしました。土偶や縄文式土器なども土から作られています。
この縄文人のヲシテ文字は宇宙のすべてを現しています。

やがて国常立命には8人の子供が生まれました。子供たちはすべて1文字の名前となっています。
それぞれ、ヱの命、ヒの命、タの命、メの命、トの命、ホの命、カの命、ミの命と言います。
この8人の子供たちの名前が、現在の東京の「八王子」という地名の由来になっています。八人の王子ということですね。

やがて、この8人の王子は草木の種を持って、それぞれ別々の世界へと旅立ちました。

メの命は、現在のイラクに渡り、「シュメール文明」を作りました。
ヒの命は北米に渡り、「ネイティブアメリカン」の祖先となりました。
また、ホの命は古代インドに渡り、「マハーバーラタ」に登場する神になったと考えられます。ミの命は朝鮮に渡りました。

また、一部の王子は中国にも渡ったようです。そして中国で国を開いたと書かれています。
それが、5,000千年前から3,500年前くらいにかけてあったということがわかっています。

天皇家の紋章は菊花紋と呼ばれていますが、元々は、太陽のマークでした。
16枚の花弁があるのは、皇子たちそれぞれが世界の16方向に旅立ったことを表していると言われています。

さらにホツマツタヱによると、日本のお米は弥生時代に作られたものではなく、縄文時代中期から後期にかけて作られていたこともわかっています。

葦原中国 (あしはらのなかつくに)

縄文時代後期になると、日本列島には海水が入ってきて真水と交わり、沼地が沢山現れるようになりました。葦なども大量に生い茂るようになっていました。
このことから、日本は「葦原中国(あしはらのなかつくに)」と呼ばれます。

伊邪那岐・伊弉波(イザナギ・イザナミ)

この時代の日本の指導者は、「伊邪那岐・伊弉波(イザナギ、イザナミ)」という方で、7代目の日本の天皇となります。
この二人が国民の先頭を切って葦を1本づつ抜いて、水田を作っていたということもわかっています。

「イザナギ」も「イザヤ」に由来しているのではないかという説もあります。
イザヤとはヘブライ語で「神の救い」という意味を持ちます。また「ナギッ」とは君主を意味します。
つまりイザナギとは「神の救いの君主」=「イザヤの王子」という意味になるのです。

この伊弉波、伊邪那岐の子供が「天照大神(アマテラスオオミカミ)」ということになっています。

天照大神(アマテラスオオミカミ)

天照大神は、じつは女性神ではなくアマテルという男性神でしたが、後に、女性神に変えられてしまいました。

天照大神の両親である、伊弉波、伊邪那岐が生まれたのは、実は富士山の麓でした。
富士山本宮浅間神社という神社がありますが、そこで生まれたようです。
古事記、日本書紀にはこのことについては記述されていません。

古事記によると、イザナギ・イザナミには、稚日女尊(ワカヒメ)という長女と、天照大神(アマテル)、月読命(ツクヨミ)、素戔嗚命 (スサノオノミコト)という子供が生まれました。
因みに、長女稚日女尊(ワカヒメ)の名前が、「和歌山県」の名称の由来となります。
素戔嗚命は、現在の三重県熊野で生まれました。

アマテルは「天界」、ツクヨミは「夜」、スサノオ は「海」を治めることになりました。


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