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縄文時代 / 神の系譜

こんにちは、TOYOです。
前回の「ムー大陸と縄文時代」からの続きです。
今回は縄文初期、日本の中心が葦原中国 (あしはらのなかつくに) と呼ばれた時代について、そして、モーセとイエス・キリストの謎についてお伝えしたいと思います。

これは世界のさまざまな研究者が調査した結果を総合して判断した内容となっています。
信じるかどうかはもちろん自由ですので、皆さんご自身の判断次第です。
ひとつの夢物語としてお読みください。

以下の文章の中で述べている「神」とはドラコニアン (龍族) と呼ばれる地球外生命体を意味します。

葦原中国 (あしはらのなかつくに)

縄文時代、縄文人には所有欲という概念がなかったために、争いは起きませんでした。
この争いのない、愛と調和に満ちた平和な時代は、約1万4000年間続きました。

日本の中心は、葦原中国 (あしはらのなかつくに) と呼ばれていた時代でした。
葦原中国とは、日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界です。

天照大神大国主命から地上の支配権を譲られた「国譲り」の神話が残っていますが、実際はそうではないようです。

ニニギノミコト

ニニギノミコト (出典:Pinterest)

葦原中国を治めるため、大陸から、日向(宮崎県)の高千穂に降り立ったのが、「ニニギノミコト」を中心とする一行でした。
「天孫降臨」といわれているものです。
ニニギノミコトに同伴してきたのは、アメノコヤネノミコト、フトダマノミコト、アメノウズメノミコト、イシコリドメノミコト、タマノオヤノミコトです。

当時、葦原中国を治めていたのは大国主命 (オオクニヌシノミコト) でした。
そこにニニギノミコトがやって来たのです。
大国主命の軍隊とニニギノミコトの軍隊が戦ったのですが、大国主命の軍隊はその圧倒的な勢力にあっさりと負けたのです。
大国主命は葦原中国を譲ったのではなく、ニニギノミコトに奪い取られたのです。

葦原中国を治めたニニギノミコトは、それまでいた神まで変えてしまいました。
アマテル…櫛玉饒速日命 (クシタマニギハヤヒノミコト)天照大神という女神に変えられ、アマテルの妻の瀬織津姫 (セオリツヒメ)櫛名田比売 (くしなだひめ)月読 (ツキヨミ/ツクヨミ)木花咲耶姫 (コノハナサクヤヒメ) 等が歴史から消されてしまいました。

ちなみに、アマテル…櫛玉饒速日命や瀬織津姫の名前を知らない人が多いのですが、みなさんは別名で覚えていると思います。それは「織姫」と「彦星」です。

月読の子孫が浦島太郎とされており、浦島太郎の「うら」は、「うら→裏」「うら→占」で、ツキヨミは占いの神、裏世界・異世界の神
浦島太郎とツキヨミは、京都府伊根町の浦嶋神社に一緒に祭られています。

ニニギノミコトはアマテルを洞窟に幽閉しました。そして、新たな女神、天照大神を葦原中国の神として登場させたのです。
この話の内容がすっかり変えられ、「天岩戸伝説」となっています。
また、神武天皇はいたのですが、ニニギノミコトはその名を奪い、後の初代天皇となる「神武天皇」と名乗りました。

モーセ / 失われたアーク

ミケランジェロによるモーセ像

石川県宝達志水 (ほうだつしみず) 町には、「十戒」で有名なモーセの墓があります。
古代世界の成り立ちが記された『竹内文書』によると、今からおよそ3430年前、不合あえず朝・第69代・神足別豊耡かんたるわけとよすき天皇の時代に、モーセは船で日本の能登に渡来したとされています。

彼は天皇に十戒を彫り込んだ「十戒石」を献上し、承認を待つ間、天皇の第一皇女である大室 (おおむろ) 姫を妻に迎えました。そして12年間、神道の修行に励んだといわれています。

徳島県の最高峰・剣山(標高1955メートル)
イエス・キリストはこの山の頂上から昇天したという

この「十戒石」が入った契約の箱が、失われたアークとされているものです。
このアークは一説には、徳島県の剣山に隠されていると言われていますが、
未だ見つかっていません。

天空浮船 (あめのうきふね)

やがて天皇から十戒の承認を得たモーセは、 天空浮船 (あめのうきふね) と呼ばれる古代世界に存在した空飛ぶ船 (今で言うUFO) に乗って、宝達山を出発。
イタリア・ボローニャ地方を経由してシナイ山に渡り、十戒を世界に広めるという大役を果たしたとされています。

その後、モーセは余生を過ごすために再来日。
583歳という長寿を全うし、最期は宝達山のふもとにある三ツ子塚に葬られました。
それが現在も宝達志水町に残されているモーセの墓です。

モーセの墓

モーセの墓

モーセが葬られた三ツ子塚は古墳であることが確認されており、石川県の埋蔵文化財になっている正真正銘の墓なのです。

案内板には「モーゼはシナイ山に登った後、天浮船(あまのうきふね)に乗って能登宝達に到着。583歳の超人的な天寿を全うした」と、驚がくの伝説が記されています。

宝達山頂の神社には、モーセと関係の深いエジプトのスフィンクスに似たこま犬があります。
また地元には「平林」という地名がありますが、その読み方は「ひらばやし」ではなく「へらいばし」と読まれています。
これはモーセと関係が深い「ヘブライ」との繋がりを示しているのではないでしょうか。

戦後、モーセ伝説を聞きつけたGHQが塚を掘り起こして発掘調査も行なっています。
調査では、墓の近くの石灰山で、膝からくるぶしまで約75センチもある巨人の骨や、異国風の兜、奇妙な形の貴金属に、土器と思われる壺などが発掘されたとされています。
言い伝えによれば、モーセの身長は2メートルもあったといわれています。

モーセと神武天皇

神武天皇と伝説の霊鳥「金鵄」

「神武」という名前について、日本語の表記は5世紀に中国語を取り入れた時に、発音の順序入れ替えが起きたことを考慮しなくてはなりません。
ヘブライ語で「モー・シェ」という名前がさかさまに発音されると、「シェ・モー」となる。
しかしヘブライ人は「sh」の発音ができないため「セ・モー」となります。
彼らはこの「s」の音を、エジプト語のヒエログリフで発音するように「z」の音で発音したと考えられます。
よって「セ・モー」が「ゼ・モー」となり、最終的に「ジ・ムー」「ジンム」となったのではないでしょうか。

つまり、ニニギノミコトが神武天皇を名乗る以前にいた本物の「神武天皇」と、「モーセ」は同一人物である可能性が高いと考えられます。

日本の伝承はこの「天孫民族」を日本にまで導いた指導者を、かつて出エジプトの時代、イスラエルの民を導いたかの伝説的人物であるモーセに匹敵する偉大な指導者とみなしました。
そして彼から日本の天皇家の伝統が始まったのです。

イエス・キリスト

イエス・キリスト

古文書によると、イエス・キリストはユダヤで生まれ21歳の時に日本に渡り読み書きなどの日本の言葉や神学を学び修行を重ねたそうです。

日本には天狗伝説と言われるものがあります。
この語源となったのがキリストだったのでは?と言われています。
日本に伝わる伝説の中で、キリストは空飛ぶ船で日本にやってきたとされており、その乗ってきた船のことを天空母 (てんくうぼ) と呼んでいたそうです。おそらく前述した、天空浮船 (あめのうきふね) のことでしょう。

山に登って日焼けしたイエスは村に降りてきます。
その時のイエスの顔は、日本人よりも色素は薄そうなので真っ赤に日焼けしていたでしょう。
それを見た日本人はびっくりし、「てんくうぼの人は長い鼻、顔が赤い」と噂が広まりました。
日本人に比べたら鼻は高いですし、さらに空から来た人ですから翼が生えていると思われても自然ですね。

その「てんくうぼの人」の噂がどんどん派生し、顔が真っ赤の鼻が長い翼の生えた生き物のことを「天狗 (てんぐ)  と呼ぶようになったのではと噂されています。

生きていたイエス・キリスト

キリストの伝説によれば、ゴルゴタの丘で処刑されたのは、じつはイエス・キリストの弟イスキリでした。
彼は偉大な兄の身代わりとなって自らの命を犠牲に捧げました。
一方、磔刑から脱したイエス本人は、世界各地を遍歴したのち、日本の東北地方にたどり着きました。
そして、青森県新郷村(旧戸来村)に住みつき、その地で生涯を閉じたと言われています。
合併して新郷村になる前の村名は「戸来(へらい)村」。戸来はヘブライから転化したものと考えられています。

イエスは、「十来太郎天空(とらいたろうだいてんくう)」と名前を改名しましました。その後、ユミ子という名の青森の女性と結婚して子どもを3人残し、106歳まで生きて天寿を全うしたようです。

キリストの墓

キリストの墓
キリストの墓

『竹内文書』が伝わる竹内家の当主である竹内巨麿は『竹内文書』に記されていた「キリストは日本で死んだ」という記述に基づきキリストの墓を探し回っていました。
イエスのついのすみかになったとされる青森の村には「キリストの墓」があり、毎年6月には墓前で神主が祝詞をあげ、村人たちが盆踊りを踊ります。

青森県新郷村の静かな丘の上に、その墓はあります。
二つの土まんじゅうの上に、それぞれ木製の十字架が立てられています。
一つは「十来塚」と呼ばれるキリストの墓。
もう一つは「十代墓」と呼ばれ、ゴルゴダの丘でキリストの身代わりになって処刑された弟のイスキリの墓とされています。

キリストの墓

日本にあるキリストの墓伝説


キリストの墓を守ってきた沢口家

ここはもともと、村の旧家・沢口家代々の墓所の一角。
イエスは青森の女性と結婚して子どもを3人残しましたが、その長女が嫁いだのが沢口家です。
村役場の話によると、キリストの子孫とされる沢口家には、目が青く鼻が高い日本人離れした風貌の人物もおり、村人の間で「天狗が住んでいる」と言われていたようです。

その沢口家の家紋にはダビデの星ににた形が使われており、幸運のしるしとして十字架を額に書く文化があったと噂されています。

村では初めて子どもを外に連れ出す時、額に十字を書く風習がある

村には、赤ちゃんを初めて外に連れ出す時、その額に墨で十字を書く風習があります。
亡くなった人を埋葬すると、その上に3年間は十字の木を立てる風習もあります。
村には「ダビデの星」を家紋としている家もあります。

新郷村のキリストの墓の前では、毎年6月に慰霊祭が行われます。
キリストの墓で神道式で行われ「ナニャドヤラ」という盆踊を踊ります。
とても不思議な光景です。

盆踊の音頭「ナニャドヤラー ナニャドナサレノ ナニャドラヤー」と言う言葉はヘブライ語で神をたたえる意味となります。

ナニャドヤラ奉納舞い (キリストの墓)

新郷村に、キリスト教の聖地であるエルサレムから正式に石碑が贈呈されていました。これは真実だと認めたということなのでしょうか?

「今からおよそ2000年前、イサヤは船に乗って台湾、南西諸島を経て九州にたどりつき、まず島原半島に上陸しました。」

そういい切るのは、彗星捜索家(コメット・ハンター)で、3度も臨死体験をしたことで知られる、木内鶴彦氏。
「イサヤ」とは、木内氏によればイエスのことで、当時、イエスはイサヤと呼ばれていたそうです。

このブログを作成するにあたり、
「角谷 正樹」さん、「getnavi」さん、「パパのクズボラ学」さん、「chiken」さんのブログを参考にさせていただきました。

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