【気まぐれエッセイ】お皿洗いはいちご色の洗剤で
お皿を洗うとき、私は何故か生きていると実感する。
お気に入りの、いちご色の洗剤をちょっと贅沢に使い、たっぷりの泡で洗うときは特に気分がいい。洗い始めるまではとても面倒なのに、いざ手を動かし出すと不思議だけれど、きちんと生活をしている、生きていると感じるのだ。
だけどそのたびに虚しさも覚える。私は、お皿を洗うために生まれてきたのではないと。私には他に、成さねばならないことがたくさんあるのにと。
では、それらを成し遂げるために生まれてきたのかと聞かれれば、そうも思えないのだけど。
では、何のために生まれてきたのか?
その問いに対して私は、中学1年生のときに書いた作文で早々と自分なりの答えを出している。
『人が生まれてきたのに理由なんかない。ただ偶然、運良く生まれて来れたのだ。もしあるとするのなら、それは、幸せになるために……。幸せを感じるその瞬間にこそ、生きている意味があるのだ』 と。
「何のために生まれ、生きているのか」
人生の核心に迫る問いに対する、自分なりの答えを、心身ともに健全だった子どもの頃の私は、いとも簡単に心に据えて毎日を過ごしていた。満たされていれば、人は容易くこの答えを導くことができる。
人がこの類の疑問を抱くとき(自分の使命に気付きたいなどの前向きな気持ちからではなく後ろ向きな気持ちで)、それは、やりたくない事ばかりをこなさなければならない日々が、長年に渡り続いたときではないだろうか。大人になれば多くの人に、そんな試練が訪れる。
少しずつ、好きなことを仕事にし始め、自由に気付くことが増え始めて思うこと。それはやはり、幼い頃と同じだった。
ああ、だからいいのだと。生きるということは、お皿を洗うことでいいのだ。
人生は、そんなことの繰り返しなのだと。家事をしない人の人生も、それに匹敵する行為が多くを占めているのだと。例えばほとんどの人が歯磨きはするし、お風呂にも入るしトイレにも行くだろう。キラキラした時間で人生を埋め尽くしているように見えるバリバリの経営者でも、自由なノマドワーカーでも、職場やカフェに向かう移動時間は必要なわけで、自宅でパソコンを開き、コーヒーを入れるという準備を要する人もいるはずだ。
やりがいのある仕事に取り組む時間や、愛する人と向かい合う時間、大好きな趣味に没頭する時間、そんなメインとも言える時間をはるかに上回る時間を、恐らく私たちは取り立てて思い入れのないことを淡々とこなしながら過ごしている。
だからこそ、お気に入りの洗剤でたっぷり泡を立てて心地良くお皿を洗うことが、とても価値のあることなのだ。
当たり前だけれど、人生は今の積み重ねでしかない。できることならその積み重ねを、心満たされる瞬間で埋め尽くしたいと、私は思う。
幸せな時間で人生を埋め尽くしたい私にとって書くことは、不幸を無駄にしない手段の1つ。サポートしていただいたお金は、人に聞かせるほどでもない平凡で幸せなひと時を色付けするために使わせていただきます。そしてあなたのそんなひと時の一部に私の文章を使ってもらえたら、とっても嬉しいです。