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備中松山城に縁のある人々

 先日、備中松山城の訪問記を「建物の魅力」の面から紹介しました。

 今日は趣向を変えて、備中松山城に縁のある人やその逸話などを紹介していきます。


備中松山城主の変遷

著名な現存天守は、水谷氏が藩主の時に時に築かれた

 備中松山城の始まりは鎌倉時代にさかのぼります。近世以前の備中松山城主としては、戦国時代に毛利元就と戦った三村元親が有名です。天正3(1575)年、備中松山城は落城し、元親は自害しました。

 その後、備中松山城は毛利氏の支配下にはいります。しかし、関ヶ原の戦いによって毛利氏は大幅に減封され、備中松山城を失いました。

 江戸初期には天領(幕府直轄領)でしたが、元和3(1617)年に池田長幸が初代藩主となり、備中松山藩が成立します。

小堀遠州

 関ヶ原の戦い後、備中松山城は幕府の直轄となります。その間、城を預かったのは小堀政次・政一父子でした。小堀政一は著名な茶人・芸術家であり、「小堀遠州」の通称で知られます。
 城下町にある頼久寺の庭園は、小堀遠州が作庭した美しい枯山水庭園です。城を訪れる際はぜひ立ち寄りたいスポットです。

1605年頃に作庭された

山田方谷

 山田方谷(ほうこく)は、幕末期の儒学者で備中松山藩の家老です。藩政改革に功績があり、「備中聖人」とも称されます。備中高梁駅前には山田方谷の銅像があります。

 方谷は幕末の動乱期、藩主の板倉勝静(かつきよ)のブレーンとして活躍しました。教育者でもあり、司馬遼太郎の小説「峠」の主人公である越後長岡藩士・河井継之助の師としても知られています。

山田方谷の家塾跡

大石内蔵助

「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助も、備中松山城を訪れたことがあります。

 元禄6(1693)年、備中松山藩主の水谷勝晴が若くして病死し、水谷家は断絶しました。城主不在の城は、赤穂藩主の浅野長矩(内匠頭)が預かることになります。長矩の名代として城に赴き、受け渡しの実務を行ったのが赤穂藩家老・大石良雄(内蔵助)でした。翌年に安藤氏が城主になるまで、内蔵助が城を管理することになります。

 現地には、登城する際に内蔵助が腰かけて休んだという「大石内蔵助腰掛石」が残っています。本当に腰かけたかはさておき、確かに急な坂道の中ほど、ちょうど休憩したくなる丁度いい場所にあります。

筆者も腰かけて休憩した

 その後、浅野長矩は江戸城内で刃傷事件を起こして切腹。皮肉にも、大石内蔵助は赤穂城を明け渡す側を経験することになりました。
 
 備中松山城とその城下町は、語りつくすのが難しいほどの多くの魅力に満ちています。

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