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ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第二番》は、本当にカウンセリングの成果だったのか?(中編)

前回はこちら。


 前回紹介したエピソードはよく知られていますが、実はこれらの話に史料的な裏付けはありません。一柳富美子氏の著書『ラフマニノフ 明らかになる素顔』(ユーラシア・ブックレット)には、ラフマニノフについての「伝説」が流布した背景が指摘されています。

元ネタは伝記文学、つまり創作

 まず、ラフマニノフの逸話の多くは本人や親族の後年の回想が元になっており、記憶違いや誤認が多くあります。特に、ラフマニノフ自身が極めて謙虚な性格であり、過去の周囲の貢献を美化して語る傾向がありました。そうして語られた回想に尾ひれが付いて、大幅に脚色された物語が広まっていったのです。特に、邦訳もあるニコライ・バジャーノフの伝記文学『ラフマニノフ』が日本で度々引用文献にされたことが大きいようです。しかし、バジャーノフの著作はあくまで創作であり、ラフマニノフ研究に使える代物ではないのです。

「グラズノフ=アル中」はデマ

 その上で、一連の逸話をじっくり見直してみます。まずは、《交響曲第一番》が失敗した理由について。「グラズノフがアル中だったから」という説明はかなり広がっていますが、その根拠はラフマニノフ死後の、妻のナターリアによる回想だけです。演奏会からはすでに半世紀ほどが経過しており、信憑性には疑問があります。晩年のグラズノフがアルコール中毒で酒を手放せなくなったという話は、ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』などにもあります(同書の信頼性も怪しいですが)から、「グラズノフならありそうな話」という程度の認識で流布してしまったようです。


 一柳氏は、初演が失敗した要因として「ペテルブルク楽壇とモスクワ楽壇の対立」を近年の説として挙げています。派閥争いの結果、ペテルブルクの音楽家たちはモスクワ楽壇の寵児であるラフマニノフを潰そうとしました。楽団員たちは十分な練習時間を取れないまま本番に臨み、ラフマニノフへの逆風の中で初演が失敗した、というのです。
 この新説が真相だと決着するまでには至っていませんが、「グラズノフの無能によって初演が失敗した」という伝説は、退けなければならないようです。

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