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大名の分け方は「親藩・譜代・外様」でいいのか

 江戸幕府を開いた徳川家康は、全国の大名を3つに分けた、と歴史の授業で習います。

1.将軍家の親戚である親藩(尾張・紀伊・水戸の御三家、会津や越前の松平氏など)
2.代々の徳川家臣である譜代大名(井伊氏、酒井氏、阿部氏など)
3.関ヶ原合戦の前後に徳川家に臣従した外様大名(島津氏、伊達氏、細川氏など)

 親藩や譜代大名は要地に置かれる一方、外様大名は江戸から遠い辺境に置かれた…と習った人が多いと思います。

 しかし、大名の分類に「これが正解」というものはありません。笠谷和比古氏の唱える別の分類をした方が、歴史をつかみやすくなることもあります。その分け方とは以下のものです。

1.旧族系大名
 戦国大名として自立した領主になっていたが、信長・秀吉・家康の統一事業の過程で中央権力に臣従した大名。島津氏、伊達氏、上杉氏、毛利氏など。

2.豊臣系大名
 豊臣秀吉の統一事業の過程で、豊臣家の臣下として大名に取り立てられた者。初めから秀吉に仕えていたパターン(福島氏や加藤氏)と、織田氏の重臣だったが後に秀吉に仕えたパターン(前田氏や池田氏)がある。

3.徳川系大名
 徳川氏の一門及び重臣。一般的な親藩と譜代大名の概念をまとめたもの。


 一般にいう外様大名を、旧族系大名と豊臣系大名に分けています。

 この分類法に基づくと、関ヶ原合戦直後の大名配置に違った意味が見えてくるといいます。

 関ヶ原合戦後、福島正則に安芸・備後、黒田長政に筑前といった形で、東軍に味方した豊臣系大名に恩賞が与えられました。

 西日本には、島津氏や毛利氏といった旧族系大名の合間に、豊臣系大名が分布したことになります。この分布はよく考えると不自然です。家康にとって信頼できる徳川系大名を配置しておいた方が、反乱を防ぐうえで有利なはずです。

 笠谷氏はこの大名配置について、「東国は徳川、西国は豊臣が分担して治める」構想の表れではないかと分析します。関ヶ原合戦の直後の時点では、豊臣秀頼は健在であり、形式上家康はその家臣のままです。豊臣系大名は、家康に従いながらも秀頼の権威も奉じており、潜在的には徳川の脅威でした。

 関ヶ原合戦から大阪の陣で豊臣氏が滅亡するまでの間、江戸と大阪に二つの権威が併存したという考え方を「二重公儀体制」と言います。

 家康が関ヶ原合戦で勝利したからといって、すぐに支配を盤石にできたわけではありません。関ヶ原~大阪の陣の間の微妙な緊張関係は、「豊臣系大名」の概念を導入した方が分かりやすく理解できると思いますが、いかがでしょうか。

参考文献
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大阪の陣』(吉川弘文館)


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