吉田郡山城~毛利氏の繁栄を伝える大城郭
安芸の国人領主から、中国地方の覇者に成長した戦国大名が毛利元就です。
毛利氏は鎌倉時代から安芸の吉田荘の領主でした。吉田郡山城は毛利氏の居城で、室町時代の享徳二(1453)年以降には本拠地として史料に登場します。
毛利元就が城域を郡山全体に拡大し、西国の覇者に相応しい巨大な要塞となりました。元就の孫・輝元は広島城を築いて本拠地を移し、その後吉田郡山城は廃城となりました。
広島市街地からバスで1時間半ほどで、安芸高田市役所前に到着。安芸高田歴史民俗資料館の脇から登城口に行けます。麓には、毛利元就火葬場の伝承地や、元就長男・隆元の墓などもあります。
山道に入って歩き始めたところに、毛利元就の墓もあります。ここから山道を登ると、吉田郡山城の曲輪群に行き当たります。
吉田郡山城の山頂部は本丸で、山頂部からは数本の尾根がのびています。その尾根の一つ一つに曲輪が築かれており、城の中心部は星のような形になっています。
二の丸から見ると、山を削って平地をつくり、階段状にしていることがわかります。
本丸の北には盛り上がった地形があり、櫓のような建物があったと思われます。
吉田郡山城は基本的に土の城ですが、ところどころに石積みも見られます。多くは崩れていますが、毛利氏の繁栄を伝えています。
上の地図の右上にある「釜屋の段」の先には、「羽子の段」という曲輪もあります。気になったので足を延ばしてみると、見事な堀切がありました。
さらに三の丸の下を回っていくと、かなりの高さがある石垣もありました。
本丸から南西に延びる尾根には、「勢溜(せだまり)の段」という階段状に連なった曲輪群があります。
眺望も開けており、防御面でも有利だったでしょう。
城の範囲は広大で、山の中腹には尾崎丸という曲輪もあります。元就の長男・隆元の屋敷跡であるとも伝えられます。
さらに下りていくと、「旧本城」と呼ばれる古い城跡に着きます。
古くからある遺構のようですが、しっかりとした防御です。
山全体が城となっていることもあり、一日で踏破することは困難です。いずれ再訪し、もっと丁寧に見て回りたいものです。
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