本当に「高潔な名君?」~ローマ五賢帝の実像(後編)
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後編は、五賢帝の3人目ハドリアヌス(トップ画像の人物)の跡継ぎから。
奇妙なハドリアヌスの縁組
ハドリアヌス帝の養子縁組も奇妙なものでした。同性愛者で子どもがいなかった彼が、当初後継に指名したケイオニウス・コンモドゥスは若くして病死。するとハドリアヌス帝は、アントニヌス・ピウスを養子にすると同時に、息子を亡くしていた彼に、当時16歳のマルクス・アウレリウスと7歳のルキウス・ウェルスを養子に迎えるよう命じたのです。
つまり、ハドリアヌス帝は後継者だけでなく、次の皇帝まで決めておいたことになるのです。しかも、アントニヌス・ピウスは養子に指名されたとき、寿命の短い当時では老境といっていい51歳になっていました。76年生まれのハドリアヌス帝の10歳年下に過ぎません。
ハドリアヌスの意図はどこに
一方、聡明なマルクス・アウレリウスはハドリアヌスの寵愛を受けていました。病床のハドリアヌスが、お気に入りのマルクス・アウレリウスを後継にしようとしたが、あまりに若く、元老院議員ですらない。そこで、適当な「つなぎ」の後継者を考えたのでは――という解釈もできます。
アントニヌス・ピウス自身が「慈悲深い(=「ピウス」)」という称号で呼ばれるほど穏健な人物でしたから、なおさらです。歴代の皇帝たちが、元老院議員の中から有能な人物を後継者に選んだ、というイメージは、作られた虚像に過ぎなかったのです。
多忙な哲人皇帝マルクス・アウレリウス
さて、五賢帝の最後を飾ることになった哲学者皇帝マルクス・アウレリウスですが、彼の治世から「ローマの平和」に陰りが見え始めます。東方の国境を巡る戦争に、北方のゲルマン民族の侵入。マルクス帝は広大になりすぎた版図を守るための防衛戦争に明け暮れます。
もともと持病持ちで頑健でなく、妻にも先立たれてしまったマルクス帝は、当然のように後継者を意識し始めます。そして、176年に息子のコンモドゥスを共同皇帝としたのです。そう、マルクス帝は五賢帝のうち、唯一成人した男子に恵まれた皇帝でした。ここに「皇帝は養子を指名して後継者にする」伝統は崩れたわけですが、実子がいれば後継者にするのが当然の時代。マルクス帝を非難することはできません。
しかし、父が病没し単独皇帝となったコンモドゥスは、狂気・暗愚の面をあらわすようになります。ネロ、カリグラ、カラカラほか、ローマの暴君の例に漏れず、破滅へと向かって行きました。
192年、コンモドゥス帝は暗殺されます。五賢帝の直後の皇帝があまりに残念すぎたこと、のちのローマが混乱と衰退の道へ向かっていったことが、五賢帝の過度な美化につながってしまったのかもしれません。
主要参考文献:
南川高志「ローマ五賢帝 『輝ける世紀』の虚像と実像」(講談社学術文庫)
新保良明「ローマ帝国愚帝列伝」(講談社)
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