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ベートーヴェン《交響曲第三番》の『英雄』は、 本当にナポレオンを指しているのか(中編)

前回はこちら。

ベートーヴェンが怒った記録はない

 ナポレオンが世襲の皇帝に就く、というフランス議会の布告がなされたのは、一八〇四年五月一八日のことです。この知らせは、五月中にはウィーンにも届いたと思われます。有名な戴冠式は、同年の一二月二日に行われました。


 しかし、一八〇四年八月二六日、ベートーヴェンは出版社ブライトコップ・ウント・ヘルテル社への手紙の中で「この交響曲のタイトルは、本当はボナパルトです」と明記しています。

 一方で、一八〇六年に《交響曲第三番》が出版される以前、「英雄(エロイカ)」という語がこの交響曲に対して使われていた形跡が見られないのです。

見当たらない『英雄』の表題

 公開初演は一八〇五年四月七日ですが、この時のプログラムにはこうあります。「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏による新作の大交響曲嬰ニ長調、ロプコヴィッツ侯爵に献呈、作曲者自身の指揮」と、標題がありません。
 代わりに、この交響曲の公開初演や、それ以前の私的な演奏を世話したロプコヴィッツ侯爵への献呈が公にされています。


 交響曲がナポレオンからインスピレーションを受けて書かれたことは事実でしょうし、ベートーヴェンがナポレオンの皇帝即位を聞いて不快に感じたのもあり得ないことではありません。
 しかし、『ボナパルト』というタイトルがどのようにして『英雄』に切り替えられたのかについては、確実な記録が残っていないのです(ルイス・ロックウッド著・土田英三郎他訳『ベートーヴェン 音楽と生涯』春秋社)。

『英雄』はナポレオン個人ではなく…

 なぜ、『ボナパルト』という標題は『英雄』に変わったのか。推論するしかありませんが、曲のモデルの特定は容易でありつつも、「ある偉大な人物の思い出」という風に、あえて複数の解釈の余地を残していることがポイントかもしれません。この曲の第二楽章は有名な《葬送行進曲》であり、ある英雄の追悼をテーマにしているととることもできます。


 リースによれば、ベートーヴェンはナポレオンについて「彼を非常に高く評価し、またローマの偉大な執政官たちになぞらえていた」そうです。ベートーヴェンはナポレオンという個人を尊敬したというよりは、ナポレオンの姿に古代の理想化された英雄像を見たのではないでしょうか。
 《交響曲第三番》は、ナポレオンという特定の個人を描写したのではなく、漠然とした『英雄的なもの』を描いたものであり、だからこそ標題の変更が必要だったという解釈もできます。


 ナポレオンの側近だった画家ダヴィドは、同時代の人物や出来事を古代の歴史や神話になぞらえた作品をつくりました。ベートーヴェンも、当時の西欧にあった芸術の潮流にのっとって、《交響曲第三番》を書いたのでしょうか。

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