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土浦城~低地を生かした水の城郭

 茨城県土浦市にある土浦城は、続日本百名城にも選定されています。現在城址公園になっている地域は小さいですが、かつては土浦藩の藩庁として広大な城域を持ちました。

水に浮かんだ「亀城」

 土浦城は、霞ヶ浦の近くの平地に築かれた平城です。洪水の際に周囲が水に漬かっても城は水没せず、それが亀の甲羅に見えたので「亀城」という別名があるとのことです。

 土浦城は15世紀に、常陸の戦国大名・小田氏の家臣によって築かれました。その後幾度かの改修を経て、江戸時代には土浦藩の政庁となりました。急峻な地形はありませんが、霞ヶ浦や桜川の水を活用した堀をめぐらせた「水の城」でした。

各所に土塁が残る

 土浦城は、近世城郭になっても石垣が使われない「土の城」でした。水戸城や佐倉城など、関東平野には石垣のない近世城郭を多く見かけます。

関東では貴重な残存建造物

旧前川口門。江戸末期の建築で、1981年に移築された。
関東地方で唯一現存する櫓門
霞門

 土浦城には、櫓門・霞門・旧前川口門と、江戸時代の建築が残っています。本丸の西櫓や東櫓も再建されており、東櫓は無料で見学できます(2023年6月現在)。

土浦藩主土屋家の物語

 土浦藩主の家は何度か交代していますが、17世紀末以降は土屋氏が城主として土浦城に入りました。

 1575年、武田氏の重臣・土屋昌続(昌次)は長篠の戦いにおいて壮絶な戦死を遂げました。家督を継いだ弟の昌恒は、織田信長による武田攻めの際にも、最後まで主君を見限ることなく、1582年に天目山の戦いで戦死しました。昌恒は、山中で蔓をつかんで体を支え、片手だけで戦ったため、その奮戦ぶりは「片手千人斬り」と伝えられています。

 武田氏の遺臣の多くは徳川家康が吸収しますが、土屋昌恒の遺児・忠直も家康に召し出され、徳川家臣となります。この土屋忠直の子孫が土浦藩主土屋氏(譜代大名)となるのです。

 1669年、土屋忠直の次男・数直が土浦藩主となりました。短期間松平氏が入ったのを除き、幕末まで土屋氏がこの地を統治することになったのです。


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