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種痘を日本にもたらした「リレー」とは?

 15世紀に大航海時代が始まり、ヨーロッパ人は世界各地に進出した。「世界の一体化」が進むと、感染症が伝わる範囲も広がっていった。コロンブスのアメリカ大陸発見により、アメリカ大陸に天然痘やはしか、ヨーロッパに梅毒が持ち込まれたのが有名である。


幕末日本に上陸したコレラ

 もとはインドのベンガル地方の風土病であったコレラは、インドを植民地化したイギリス人により、19世紀前半に各地に広がった。安政4(1858)年には、開国したばかりの日本をコレラが襲った。最初に持ち込んだのは、長崎に寄港したアメリカ軍艦ミシシッピ号の乗組員である。この時の流行は江戸にまで至り、死者は26万人ともいわれる。開国にともなう経済の混乱に加え、コレラを外国人が持ち込んだことから、外国人を排斥する攘夷思想が広がった。攘夷思想は、やがて倒幕へとつながっていく。

多くの日本人を救った国際協力

 しかし、西洋とのかかわりが、逆に人々の命を救う役に立った事実も忘れてはならない。例えば、鎖国下の日本に紹介された種痘法である。種痘とは、弱毒化したウイルスを人に接種して天然痘の免疫をつける方法で、18世紀末にイギリスのジェンナーが発明した。19世紀の日本の蘭学医も種痘法の存在は知っていたが、鎖国が輸入の壁となっていた。

 種痘法の導入に道筋をつけたのが、佐賀藩主の鍋島直正である。彼の依頼を受け、長崎に赴任していた医師モーニッケが日本に牛痘苗を持ち込んだ。しかし、ヨーロッパから持ち込んだ牛痘苗の接種は失敗に終わる。牛痘苗は生きたウイルスなので、長い航海のうちに死滅してしまったのである。


 そこでモーニッケは、ヨーロッパからバタヴィアに移入した苗を人に接種し、その人から牛痘苗を採取して長崎に運ぶ方法をとった。こうして、嘉永2(1849)年に初めて日本に種痘法が導入される。多くの日本の医師が種痘を待ち望んでおり、普及も早かった。

「世界の一体化」の光と影

 19世紀後半には、感染症の原因は微生物であると確認され、医学は大きく前進した。フランスのパスツールは狂犬病の予防接種を開発し、ドイツのコッホは結核菌やコレラ菌を発見。ドイツに留学した北里柴三郎はコッホに学び、日本の公衆衛生の向上にも貢献した。

 現在の新型コロナウイルスの世界的流行も、大勢の人が国境を移動するグローバル化がもたらしたものといえる。一方で、ワクチンなどの国際協力がなければ人類は感染症に立ち向かえないのも事実だ。

 感染症との戦いには、国境を越えた協力が不可欠なのである。

(※本稿は、「マンガでわかる 災害の日本史」(池田書店)に寄稿した文章をもとにしています)


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