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古代日本の知られざる「女帝」

 飛鳥時代~奈良時代には、8代6人の女帝が登場しました。推古天皇、皇極(斉明)天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙(称徳)天皇のことです。

 また、神話上の人物としては神功皇后(トップ画像)がいます。第14代仲哀天皇の皇后で、第15代応神天皇が即位するまで摂政を務め、海を越えて朝鮮半島を征伐した(三韓征伐)とされます。明治時代までは歴代天皇の中に数えられていました。

 ここまでは割と知られていると思いますが、他にも「女帝」と言える(かもしれない)人物がいたことはご存知でしょうか。

飯豊青皇女とは

 飯豊青皇女いいとよあおのひめみこは、古事記・日本書紀(記紀)に記載のある皇族女性です。時代は5世紀後半と考えられています。

 飯豊青皇女の系譜は、以下の2説があります。
①第17代履中天皇の皇女
②履中天皇の皇子・市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの皇女(履中天皇の孫)

 歴代天皇のうち、16代仁徳天皇以降は実在したものとされます。不明点は多いものの、飯豊青皇女の事績は神功皇后らの時代に比べれば信憑性が高いといえます。

 以下は、『日本書紀』の記述によります。

兄(or父)の暗殺とその後

 飯豊青皇女の兄(または父)とされる市辺押磐皇子は、従兄弟にあたる大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の恨みを買い、謀殺されました。

 その子である2人の皇子(後の仁賢天皇・顕宗天皇)は、播磨に逃れて潜伏します。

 22代清寧天皇の時代、身を隠していた2人の皇子の身分が明らかになりました。子がいなかった清寧天皇は、2人を大和に迎えました。

女帝の統治があった?

 清寧天皇が崩御した後、皇位継承者の2人の兄弟は互いに譲り合い、皇位が決まりませんでした。そのため、飯豊青皇女が代わりに政務をとったと記されています。

 政務をとった時間は短く、わずか10か月ほどで皇女は没しました。その後、兄弟の内弟が顕宗天皇として即位します。

 平安時代に編纂された歴史書『扶桑略記』には飯豊青皇女のことを「飯豊天皇」と記すなど、女帝が即位したとみなしている史料があります。

 飯豊青皇女を「女帝」とみなすかは解釈が分かれると思いますが、推古天皇に先立って女性が執政したという記述は興味深いものがあります。

 

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