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平将門の首塚は、平将門の首塚ではない

 東京の大手町、オフィス街の真ん中にある「将門塚しょうもんづか」。「平将門の首塚」として知られ、祟りの伝説も有名です。
 さて、「将門の首塚」というからには、そこに将門の首が埋められ、供養されているのだ……と普通は思うでしょう。
 しかし、史跡の所に立っている案内板(地元の教育委員会などがつくる)の内容が「史実」であるとは限りません。あくまで地元に伝わっている伝承に過ぎず、史料的裏付けがないこともありますし、発掘などの調査によって否定されることもあります。

 大手町にある「将門の首塚」と言われる史跡は、別に将門の首が埋葬されているわけではないのです。

首塚の場所は将門とまったく縁がない

 そもそも、将門塚はなぜ現在の東京都千代田区にあるのでしょうか。伝承では、「京都で獄門(さらし首)にされた将門の首が関東まで飛んできた。その首を供養したのが将門の首塚である」とされます。

 将門が本拠とした下総国豊田、彼が戦死した下総国猿島さしまは現在の茨城県の南部。史実の将門と将門塚の所在地にはまったく関係がありません。
 上記の伝承が史実でないことは言うまでもありません。むしろ、もともと将門とは無関係な史跡と、将門と結びつけるために創作された伝承と考えられます。

もともとは古墳だった将門塚

 一般的に、将門首塚といえば見出し写真のような石碑を思い浮かべるでしょう。しかし、「塚」とは本来「墓などにするため、土を盛って高くした所」という意味です。将門塚も、「塚」というからには「土が盛り上がった所」でした。しかし、1923年の関東大震災でくずれ、その後更地にされてしまいます。

 この時、工学博士の大熊喜邦おおくまよしくにらによる調査が行われ、塚の内部に長方形の石室があることがわかりました。内部にあったのは近世の陶器の破片などで、将門の生きた10世紀の遺物は何も発見されませんでした。
 将門塚は、5世紀につくられた小型の古墳で、内部はすでに盗掘されている、というのが調査の結論です(※1)。

※1…乃至政彦『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書、p24)
   松崎憲三『塚をめぐるフォークロア』

なぜ、「将門の首塚」になったのか

 では、将門とは無関係だった塚が、なぜ将門の首塚になったのでしょうか。実は、「ショウモン塚」と呼ばれる塚は全国に見られます。このことから、「ショウモン塚」に後付けで「将門」の字があてられたのではないか、とする丸山忠綱氏による説があります(※2)。

 そして「ショウモン」の由来とは、中世から近世にかけて活動した「唱門師(声聞師)」のことだというのです。彼らは身分の低い陰陽師のような人々で、お祓いや祈祷をしたり、舞を踊ったりして生計を立てていました。古い塚のそばに住んでいる者が多かったといいます。

 つまり、5世紀からある古墳が「唱門師」と結びついて「ショウモン塚」と呼ばれるようになり、さらに「将門塚」の字があてられた。歴史の敗者である将門に対する人々の同情心もあって、地域の信仰の場として伝承が語り伝えられた……ということになるでしょうか。但し、真相はわかりません。

 将門塚は、本当に「将門の首塚」であるわけではありません。しかし、近世ごろから人々の信仰を集めてきたことは間違いなく、そこには興味深い歴史が隠れているのです。

※2…丸山忠綱『平将門と神田明神と唱門師』


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