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ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第二番》は、本当にカウンセリングの成果だったのか?(後編)

前回はこちら。

《交響曲第一番》初演失敗後の失意と復活に関しても、これほどドラマティックな話だったのでしょうか。

ラフマニノフは鬱病にはなっていない


 確かに、ラフマニノフは初演の失敗に大きく気落ちし、三年ほど作曲をしませんでした。しかし、彼が長期にわたって鬱病に罹患したかのように捉えるのは早計です。初演失敗は一八九七年の三月ですが、五月から田舎に行って療養した甲斐があり、夏頃には気力も体力も復活していました。


 転機となったのは、その年の秋にマーモントフ歌劇場の指揮者のポストを得たことです。マーモントフは実業家であり、芸術への支援を積極的に行っていました。一〇月にサン・サーンス《サムソンとデリラ》でデビューすると、各紙から大絶賛を受けます。ラフマニノフの意欲は半年ほどで復活し、演奏家として充実したキャリアを積み始めたのです。彼が心の病にかかっていたとは思えません。一八九八年の後半には、《ピアノ協奏曲第二番》の作曲に着手しています。

ダーリ博士の治療を受けた原因は別にある?

 しかし、作曲家としても復活を期していた一八九九年の秋、ラフマニノフの初恋の人ヴェーラ・スカローンが、別の男性と結婚してしまいます。一九〇〇年一月九日には、尊敬する文豪レフ・トルストイと面会しますが、冷淡な態度をとられて終わりました。


 ダーリ博士の治療を受けた頃の気分の落ち込みは、むしろこうした出来事に原因があるようです。その治療も、一九〇〇年一月~三月の間に数回催眠療法を受けただけです。ダーリ博士の治療の効果は、「伝説」にあるほど劇的ではなかったというのが、多数の専門家の見方となっています。ラフマニノフの復帰作となる《ピアノ協奏曲第二番》は、ダーリ博士の治療の一年後、一九〇一年四月に完成しました。作品はダーリ博士に献呈されましたが、これも「成功は他人のおかげ」という作曲者の謙虚さが現れてのことでしょう。


《交響曲第一番》初演から《ピアノ協奏曲第二番》作曲に至る経緯は、「大きな挫折の後復活した」という単純なものではなく、その間にも浮き沈みがあったのです。人間は、わかりやすく感情移入しやすい話を好みます。おそらくラフマニノフの逸話も、そうした「わかりやすいストーリー」を求める大衆の心理によって広まったのでしょう。

まとめ

 最後に、本稿を要約しておきましょう。

伝説:若きラフマニノフは、《交響曲第1番》の初演に大失敗したショックで抑鬱状態になった。しかし、精神科医ニコライ・ダール博士の治療を受けて立ち直り、傑作《ピアノ協奏曲第2番》を完成させた。

真相:《交響曲第1番》は確かに失敗し、ラフマニノフはしばらく作曲の筆を折った。しかし、演奏活動は続けており病的な抑鬱に陥ったわけではない。《ピアノ協奏曲第2番》作曲におけるダール博士の貢献も限定的だと思われる。

(完)


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