見出し画像

モーツァルトの妻コンスタンツェは浪費家の悪妻だったのか(前編)

・本稿の要約
【伝説】
モーツァルトはその晩年、聴衆の無理解や妻コンスタンツェの浪費によって困窮し、巨額の借金を背負った。死んだときは質素な葬儀が執り行われ、共同墓地に寂しく葬られた。

【真相】
モーツァルトはかなりの高額所得者であり、借金の理由も外的な要因に求められる。貧しい生活を強いられたわけではなく、コンスタンツェの浪費も後世の悪評である。

モーツァルトのプロフィール

 三五年の短い生涯の間に、六〇〇もの作品を生み出した天才、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(一七五六~九一)。ザルツブルクの宮廷音楽家の息子として生まれたモーツァルトは、幼少から音楽の才能を示します。父レオポルトは英才教育を施し、ヨーロッパ中を旅行して息子の演奏を披露しました。

 当時の音楽家は王侯貴族に仕えて生活するのが一般的であり、そのために我が子を売り込む「就職活動」が目的でした。しかし、モーツァルトは自由を好む宮仕えに向かない性格に育ってしまいます。一七八一年、モーツァルトはパトロンであるザルツブルクの大司教と大喧嘩し、宮廷音楽家の地位を捨てました。そしてハプスブルク帝国の首都ウィーンに移住し、フリーの音楽家として生計を立てることになります。


 バッハは教会のオルガン奏者、ハイドンはエステルハージ侯爵家のお抱え作曲家、ヘンデルは英国王のお抱え作曲家―――モーツァルトは、雇用されないフリーランスとして活動した、最初期の高名な作曲家と言えるでしょう。モーツァルトほどの才能があっても、フリーで食べていくのは容易ではなかったらしく、ピアノの演奏会・ピアノのレッスン・楽譜の出版などで収入を得ました。しかし晩年には困窮し、健康を害したモーツァルトは一七九一年一二月五日、三五歳の若さで息を引き取りました。

モーツァルト晩年の経済状況とは

 モーツァルトの生涯については謎も多く、さまざまな伝説が流布しています。「夭折した天才」故に人々に同情され、時代の経過とともに脚色されていったのでしょう。


 例えば、モーツァルトが晩年に困窮し、借金漬けになったことがしばしば語られます。根拠とされるのが、モーツァルトの友人で古物商だったヨハン・ミヒャエル・フォン・プフベルクという人物に充てた手紙です。「プフベルク書簡」は一七八八年から九一年に書かれたとみられ、二十一通が現存しますが、そのほとんどが借金の申し込みなのです。プフベルクは断続的にモーツァルトへの送金を続け、その総額は一四五一フローリン(一フローリンは現在の一万円と言われます)にものぼりました。


 モーツァルトの葬儀はウィーンのシュテファン大聖堂で行われ、遺体は市壁(当時のウィーンは、外敵からの防衛のため城壁に囲まれていました)の外にある聖マルクス墓地に埋葬されました。モーツァルトは、他の四,五体の遺体とともに共同墓穴に葬られますが、埋葬に立ち会った者が誰もいなかったため、彼の埋葬場所はそのまま永久にわからなくなってしまいました。こうした寂しい葬儀の様子もあって、「モーツァルトは貧困のうちに死んだ」と自然に認識されているのでしょう。


 モーツァルトが困窮した理由として、「妻のコンスタンツェが浪費家だった」ことがしばしば言及されます。また、モーツァルトはウィーンに移住した当初は人気作曲家でしたが、その先進性から次第に聴衆に理解されなくなり、人気が凋落していったとも言われています。例を挙げると、一七八九年にモーツァルトが自宅での予約演奏会を開催しようとしたとき、予約者はヴァン・スヴィーテン男爵(音楽愛好家の貴族で、モーツァルトの重要な理解者だった)一人だけだったそうです。

(続きはこちら)



この記事が参加している募集

#最近の学び

181,034件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?