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ブラームスとクララ・シューマンは恋愛関係にあったのか《4》

前回はこちら。

クララの息子の悲劇的な死


 なぜ、ブラームスとクララ・シューマンの関係をめぐる噂が流布したのか。

 その鍵を握るのは、シューマン夫妻の息子であるフェルディナントです。夫妻の間には八人の子供が生まれ(うち一人は夭折)、一八四九年生まれのフェルディナントは六番目にあたります。彼は不幸なことに、一八七〇年の普仏戦争に従軍中病気にかかり、その治療が原因でモルヒネ中毒になってしまいました。

 フェルディナントが体調を悪化させ働けなくなると、クララは妻アントーニエと六人の子供たちを援助することになります。クララが孫たちの将来について決定権を持つことが、扶養の条件でした。一八九一年、フェルディナントは四二歳の若さで亡くなります。

親族と折り合いが悪かったクララ

 母親としてのクララ・シューマンを評価することは、少々慎重さを要します。彼女は、夫の晩年から死後にかけて、女手一つで家計を支えました。しかし、それゆえに演奏活動やレッスンのため多忙であり、子供たちとの時間はほとんどなかったようです。クララの親しい友人は、彼女の内面の強さや寛大さを知っていました。一方で、母としてのクララは几帳面で厳しく、子供が甘えられるような人ではなかったようです。

 生真面目で厳格な人柄によるものでしょうか、クララとアントーニエとの折り合いは良好ではありませんでした。フェルディナントの死後、嫁と姑の関係はさらに悪化し、孫たちも祖母に悪感情を持つようになります。

孫による暴露本があらぬ噂を広めた

 クララ死後の一九二六年、フェルディナントの第三子アルフレートは、偽名で一冊の暴露本を出版しました。そのタイトルは『フェリックス・シューマンの父親としてのヨハネス・ブラームス、ある愛の不思議 オイゲニー・シューマンの回想録の大真面目な改作』(オイゲニー・シューマンとはシューマンの娘の一人)。

 この本にはクララとブラームスの不倫について書かれており、末っ子フェリックスの実父はブラームスであるとされています。言うまでもなく、これらは根拠のないクララへの中傷でした。存命だったシューマンの娘たち(アルフレートの伯母たち)は出版を差し止めようとしますが、うまくいかず世に出回ってしまいました。他にも、具体的な資料を欠いた通俗的な書物が出版され、クララとブラームスの関係についてのゴシップが世に流布していったのです。

晩年まで続いた交流


 後世の俗っぽい憶測とは裏腹に、晩年まで続いた文通を見ると、互いの才能に敬意を表していた芸術家の姿が浮かび上がってきます。一方、二人が老年になっていた一八九一~九二年頃には、ちょっとした行き違いから一時的に仲たがいを起こしています(ブラームスも気難しく、人付き合いの苦手なタイプでした)。週刊誌的な興味とも、崇高な芸術家像とも異なる、極めて人間味のある友情が見えてくる気がします。

 一八九六年五月、病床にあったクララは、ブラームスの六三歳の誕生日を祝う手紙を書きました。六三歳のブラームスは喜び、すぐに返事を送ります。これが、二人の間で交わされた最後の文通となりました。
 同年五月二〇日、クララ・シューマンは脳卒中により七七年の生涯を閉じました。ヨハネス・ブラームスが世を去ったのはその十一か月後、一八九七年四月三日のことです。

(完)

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