見出し画像

じぶんのクセをすきになる【1-7】偏りながら生活するために



 じぶんのクセって、どうやったら好きになれるんでしょう?僕は嫌いなクセだらけです。朝起きられない自分、仕事で毎回失敗をしてしまう自分、大切な人の期待に応えられない自分…。「こんな自分になりたい」なんて思うんだけど、いつもそれを邪魔してくるようなクセばっかり。嫌になっちゃいます。

 でも、実はそのあなたのクセ、唯一無二の才能に紐付いています。あなたの身体の声を、心の声を、きいてみませんか。そこにきっと、答えはあります。この本を読み終えたらきっと、読む前よりも自分のことがもっと好きになっているはずです。

ーー内容は、クセを受け入れて生きること、じぶんの才能の知り方、個性の感じ方、自然体な生き方、深層心理学、そんな感じ。

 何とか書籍にできるまで、無料で公開し続けます。いや、本当は無料じゃありません。お金を払う前に内容を読めるようにしておきます。

 この原稿を読んで下さった方は、書籍代がわりに下記の僕がやってる個人会社の銀行口座へ1,650円(1,500円+税)を振込、またはこの記事下部のnoteのサポートから払っていってください。でも、読んでも払わなくてもいいです。そうしたら、後から気が向いたときに払ってください。1ヶ月後でも、1年後でも、10年後でもいいです。料理をぱくっと食べてもらえただけで作った側は嬉しかったりします。その代わり、後から払うかもしれません的な暗号として、そっとスキを付けていってやってください。

-----------------------------
▽ 書籍代振込先
PayPay銀行
005 ビジネス営業部
3025641
普通預金
カ)シアル
-----------------------------

 お金をもらえると僕のやる気が出ます。誰かが読んで、何かを感じてくれたことが伝わります。返ってきて、循環します。お金を支払った人と、それを受け取った人の二人の環に、新しい流れが巡ります。そして僕がまた書きます。いや、本当は払ってくれなくてもたぶん僕は書き続けます。でも、やる気が出るのは嬉しいです。


じぶんのクセをすきになる

▽ 目次(原稿が進むほど詳細になっていきます)
1. クセと才能って、何のために生まれたんだ?
 ・みんな違ってみんないい。の裏返し
 ・クセの正体は『自然体の偏り』
 ・お金を受け取るクセ、受け取らないクセ
 ・クセとダーウィン
 ・クセの東洋医学。あとちょっと体癖について
 ・一人で生きていけると勘違いしていく僕たち
 ・偏りながら生活するために
 ・クセと才能は「ある・ない」の世界にはいない
 ・才能と技術の違い
 ・一人で生きることを追求する社会で、なぜ人は、人と共に生きるのか
2. クセを通して才能を聴きとる
 ・痛みを思い出す
 ・無意識の信念を自覚する
 ・処世術の発動を気付いてあげる
 ・反射神経で行動するのを辞めてみる
3. 偏見をたくさん持ったら、自分のことを好きになれる
 ・偏見は、偏見でしか壊せない
 ・ユング心理学
 ・メンタルモデル
 ・MBTI
 ・体癖


偏りながら生活するために


 こんにちは、とつゆうです。今日も前々回から引き続き「他者と共に生きる」ことについて書いていければと思っています。
 このことについて考えて、はや三回目となってしまいました。でもそれくらい大事なトピックであることも分かってきました。
 前回は「人は一人で生きていけるのか?」ということについて考えてみました。
 僕たちは都市生活の匿名性の高い経済の中で、お金を稼いで自立しているという実感を得るほどに、ひとりで生きていることから本当は遠ざかっているのではないか?ということをお話しました。そして本当は多数の、無限とも思えるような他者に依存して僕たちは生きているということについて書きました。
 今回はより、「クセ」にフォーカスした目線で考えていきたいなと思っています。そして、抽象的に、いや根本的な話として「命はひとりで生きていけるのか?」という話ではなく「人はひとりで生活していけるのか?」というもう少し現実的な話をしてみたいと思います。
 生活。生活って何なんでしょうか?生活って、生きる活動って書くんですね。朝に活動するのが朝活、結婚するための活動が婚活、じゃあ生きるための活動が生活。日本語考えた人って、面白いですね。短絡的なのか、本質的なのかよく分かりません。
 ということで生活とは、生きる活動とは、生き抜くための活動なわけです。僕たちがより生命活動として根本的に必要としている活動のことを、僕たちは生活と呼んでいるような気がします。
 料理をつくって食べることであったり、寝ることであったり、服を洗濯したり、部屋の掃除をしたり、そういうことだったりが、「生活」という言葉によって連想されることじゃないでしょうか?
 逆に「生活してるぜ〜」って言いながら、連日朝帰りしてる人はあんまり想像つかないですね。連日友達の結婚式に参加している人が「生活が忙しくて…」って言ってたら、その人は生きるためには友達の結婚式に参加し続けなくちゃいけないってことですよね。すごい大変な人ですね。いやむしろ、人生楽しくなっちゃうかもしれませんね。
 そうです、生活とは「生き延びるための活動」なんだと思います。生きていくための活動です。本当の言葉の意味とか何だかは知りませんが、この文章で「生活」と言ったら、そういうことを指して使っていると思って下さい。
 じゃあ、「一人で生活できるか?」という問いになってみると、どうでしょうか?「人はひとりで生きられるのか?」という問いかけよりも、かなり具体的に自分の目の前まで迫ってくる感じがします。この文章を書いている机の上に物が散乱している僕なんかは、うっ、って胸にきます。「ひとりで立派に生活できてます!」なんて言えないなぁなんて思っちゃいます。
 でも実際は、ひとりでも生活できちゃってる人も多いんじゃないかと思います。ちょっと当たりを見回してみると、ひとりで生活できるのなんて当たり前のことなのかななんて思っちゃいます。そのくらいひとりで生活するのは、普通のことになっているような気がします。
 僕はこれまで、ひとりで生活していることがかなり少なかった方の部類だと思っています。高校生までは実家に住んでいたし、大学生になったらシェアハウスに住んだり彼女と同棲していたり、大学を卒業してからは好きな人の家に転がり込んでいくのが僕の定番のスタイルになっています。ひとりになるのが不安な性質なんですね。ひとりになるとソワソワしてしまう。ソワソワしてしまうのを止めるために、堕落してしまう。堕落してしまう恐怖があるから、いつも誰かと一緒にいるように気を付けていたような気がします。
 ですが今は、ひとりで住んでいます。しかもひとりで生活するのがとっても快適です。自分でも驚くような変化です。ひとりで生活することなんてできないと思っていた自分が、今はひとりを満喫している。むしろ誰かと住むのはしばらくいいや…なんて思い始めている。これって何が起こっているのでしょうか?僕も自分であんまり分かっていなくて、動揺しています。それくらいの変化です。きびきびと一人で生活をしていることに、自分で驚いてます。使い終えた机を布巾で拭いて驚く、規則正しい時間に布団に入れている自分に驚く。もう驚きだらけです。

 今回の「人はひとりで生活できるのか?」という問いについての答えとして僕は「NO」だと考えています。人は誰かと生活をする必要があるのではないか、と考えているということです。僕は今ひとりできびきびと生活しているわけですが、この現象についても後で考えていければと思っています。
 ここまでずっと「クセ」について書いてきていますが、クセとは、それぞれの人が先天的に持っている偏りであるということは、本書を読んできて下さっている方であれば理解してもらえるんじゃないかと思います。
 そしてその偏りとは、自然体であるということもそうです。その人の自然と心地よくなる体の向きとか、思考の傾向とかが、クセであるということです。そしてクセは才能に結びついています。才能とは、唯一無二の力のことです。他の人には決して持つことのできない力のことです。個性と言い換えてもいいかもしれません。
 そして、クセは治りません。荒っぽく抑え込むことはできても、限界があります。ぎゅーっと抑えつけられたバネのように、いつかは跳ね返ってきます。しかも抑えつけていた力が強く、その期間が長いほどに、その反動は大きくなってしまいます。それが体の不調であったり、うつ病であったりするわけです。そしてもっと体力がある人だと、突然死んじゃったりするわけです。体力がありすぎて、気付けないんですね。あまりにもマッチョなので、バネが本当に機能しなくなっちゃうところまで抑え込んでしまうわけです。そうなったら、人は死んでしまいます。それが一番手っ取り早い解決方法になっちゃうからです。死は一番身近で手近な解決方法ですから。そりゃ魅力的です。そのくらいに追い込まれてしまうわけです。
 だから人は、偏りのままに生きると、力が出てくるわけです。才能が発揮されてしまうわけです。なぜなら、バネを抑えつけることに力を使わなくてもいいからです。抑えつけるために頑張って、踏ん張っていたその力を、全部別のことに使えてしまいます。全部自分の本当に望んでいることだけに注ぐことができちゃうわけです。そういうことができるようになった人間の輝きは、すごいわけです。誰にも真似できない魅力が宿ってしまいます。
 じゃあ、人は偏っていていいじゃないか。もっともっと偏っていけばいいじゃないか。偏っていくほどに才能は発揮されてしまうのであれば、そういう偏りの世界を実現していけばいいじゃないか。という考えになります。僕は基本的にそういう考え方です。みんなもっともっと、偏っていけばいいと思います。自然体に生きていけばいいと思います。変な角度になったまま生きていける世界になってほしいと望んでいます。
 ですが、それだと生活が崩壊していくんです。分かりますか?「人は個性があるから、他者と生活をする」ということです。それが「生き抜く」活動であるとういことです。このことを発見したとき、僕はびっくりしました。
 人はひとりでは、偏っていくことを止められません。人はひとりであることで、個性的になれます。その人にしかない感覚を自覚することができるのです。ひとりになるとは、他者と自分の違いに敏感になるということです。自分が他者と異なっているということに自覚的になっていくということです。人は分かり合えないということ、そして自分のこの感覚は、最後の最後に絶対に他の人には分かってもらえないんだ、という感覚に自覚的になるということです。それが最初の個性化の過程だと考えています。そういう自覚がある人は、自分の唯一無二の個性というか、才能というか、そう、偏りに自覚的です。偏っていることに自覚的なので、その人にしかつくれないものがつくれちゃいます。その人にしかできない人への愛の与え方ができちゃいます。
 ですが、そうなっていくことは自分自身では自然とは止めることはできません。どんどんと偏っていってしまうんです。なぜなら、それが自分の自然体だから。一旦、自然体という言葉が正しいかどうかはここでは置いときましょう。自分が自然である、自然は自分である。そういう流れの中にいることです。それが自然です。自然体です。
 そういう流れに入っていくことを、自分だけでは止められないわけです。そうなっていくと、人はどんどん個性的になっていきます。他者と違う存在になっていきます。そうしたらどうなるかというと、まず部屋が散らかっていきます。あ、これは僕の場合ですね。部屋の一部が極端に散らかるのが、僕の偏りなんです。大事なのは、部屋が散らかっていることが「気にならない」ということなんです。僕の場合でも実は、散らかっていると気になるパターンと、気にならないパターンがあるんです。あるパターンにおいてだけ、全く気にならなくなっちゃうんです。気をつけようと思っても、見えてさえいないという感覚です。
 これが偏りの性質なんですね。自分が気になることが気になる、気にならないことが気にならない。そういうことなんです。その自覚を強めていくと、自分だけが気にならない部分の悪化が、どんどんと進んでいきます。そしてその部分の悪化が、生活を崩壊させることにつながるんですね。もちろんそれが人によって致命的な場合と、そうでもない場合があると思います。
 料理をすることも、もっと言うとご飯を食べることも極端に気にならなかったら、その人は死んでしまいますよね。そうでなくても、摂取する栄養のバランスがどんどんと偏ってしまって健康を害してしまいます。その人の偏りは個性ですが、全体性にとって偏りが重症になると、命は生き延びれなくなってしまうんです。それが偏りの罠であり、個性の罠であり、ひとりの罠なんじゃないかと思っています。どんどんと、全体性としてのバランスを崩していってしまうんですね。偏っていってしまうんですね。
 これは、近親相姦での遺伝子交配にも似ているなと思います。同じような偏りを持った遺伝子が交配すると、個体として生命維持するためのバランスがとれなくなっていくんです。そしてある環境のひとつの要素の変化でさえ適応できなくなってしまい、死んでしまいます。
 またこれは、単品種作物の農作にも似ているのかなと思います。現代の農業では、だいたい一つの区画に一つの品種しか育てていません。そうすることによって、効率的にしているんですね。撒く肥料も同じでいいし、水のやり方も同じでいいし、害虫への対策も似たようなやり方でできちゃうわけです。合理的ですよね。以前書いた、体と心を切り離して考える西洋医学の考え方にも似てますね。でも、ある一つの品種だけの生態系をつくるとどうなるかというと、ある一つの環境の変化に弱くなってしまうということが起こります。一種類の害虫が致命的だったり、温度の変化が全ての農作物に影響します。そりゃそうです、一種類しかないので。
 これが人間にも起こるということです。偏ってしまった人間は、単品種作物と一緒です。個人では生きていける状態にないのです。ある外的環境のパラメータの変化によって、すぐに死んでしまうような危うい状態なわけです。
 そして、それをお金で何とか食い止めているように錯覚させられているのが、今の都市生活なのではないでしょうか。なぜなら、偏っていても、お金を払えば解決できることが多いからです。家にいるだけで様々な栄養のある料理をデリバリーしてもらえますし、掃除だってしてもらえちゃいます。生活の色々な偏りを、お金を払うことで他者にカバーしてもらうことができちゃうわけです。
 でも、前回話していたように、それは匿名の他者への依存を強くしていることに過ぎません。お金をたくさん支払っている状態とは、匿名の他者への依存度を高くしているということです。お金を稼いで家賃もたくさん払っていいご飯を食べていたら、何となく「私って自立できてるな…」なんて感じちゃうかもしれませんが、それは依存している相手が匿名になっているに過ぎないんです。親じゃなくて、知らない誰かになっただけです。誰か知らない人に、知らないままに依存することによって、自分自身の力で生きているぞ、と錯覚してしまうわけです。
 だからどれだけお金を払っても、本当の意味では自分の偏りのバランシングにはなっていないわけです。だから都市生活では、どんどんと精神病が増えていくのだと思います。偏ったままに、「生き抜く活動」つまり生活を失っていく人が増えているからです。そしてお金を稼ぐことは、その偏りを止める解決策にはなり得ないからです。

 偏っていると、生きいくためにはどんどん弱くなっていってしまう。だから、他者と「生き抜く活動」をする。それが、現代でひとりひとりが、その人にしかない個性を放ちながらも「他者と生活をする」ことの意味なのかもしれません。
 それは、偏りが、安心して偏りすぎることができるための人間の営みなんだと思います。バランスをとる、というわけではないんです。偏り切りながら、全体性の輪を広げ続けるということなんです。矛盾しているようで、矛盾していないことを引き起こしていけるんです。それが人間の「クセ」の力なんじゃないかと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?