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ひだまりの丘 10

病棟では、なんとなく私に対するスタッフの風当たりがきつくなったように感じた。
報告や相談の数が減り、こちらをみてはひそひそとうわさ話をしているようだった。
表立って、反抗されることはないが皆よそよそしい。
おそらく、石井さんが噂を流しているのだろうと思った。
彼女は人一倍仕事をして、他の人の仕事も手伝うので受けが良いのだ。

一方、管理職は目の敵にされがちである。
「なんなの。あの人たちの態度。良くない空気よね」
橘師長も気配を感じて、私に毒づいた。
「一度、慰労会でも開いて、みんなの話を聞いてみますか?」
私が聞くと、橘師長は、
「この状態じゃ、開いても誰も来ないでしょ」
と一蹴した。

ノロウイルスの流行は、季節が温かくなるにつれて収まっていった。
しかし、病棟の空気は変わらなかった。
田無さんは、1か月休職期間を引き延ばした後、病院にくることなく辞めていった。
石井さんは苦い顔をしていたが、病棟の他の業務に気持ちを切り替えているように見えた。

私はますます、痩せていった。
慢性胃炎になり、少ししか食べれない日々が続いていた。
見かねて、照子先生が胃薬を出してくれた。
「戸田主任のせいじゃないでしょ。思い悩まないで」と言ってくれた。
照子先生は、ほぼ私が新人のときからの長い付き合いで、照子先生も研修医だった。
職種を超えた同期で、他の同期も含めてたまに飲みに行く仲だった。
そのつながりがあるからこそ、14年も同じ病院でやってこれたというのはある。
しかし、その同期もライフステージの変化で去っていき、今や同期は照子先生だけだ。
「私ね、夫と二人で開業しようと思うの。夫が産婦人科だから産婦人科クリニックね。私も今より子供を見れる時間が増えると思うし、自分ちのクリニックだと、融通が利かせられると思うからね。」
と、ある日の飲み会で照子先生は私に言った。
「戸田ちゃんさえよかったら、私のクリニックでオープニングスタッフとして働かない?」
少し、お酒で顔を赤くした照子先生がそう言った。
「嬉しいけど、私広澤さんのことも解決してないし…。病棟でやることもいっぱいありますし…」
というと、まぁゆっくりと考えてくれていいからと照子先生は笑った。

私の体の不調はあちこちに出た。
まず職場に行くと動悸がした。深呼吸してから、業務につく癖がついた。
腹痛や食欲不振は続いていて、一度胃カメラをしたら慢性的な胃炎と言われて薬の数が増えた。
夜の寝つきの悪さが出てきて、寝酒を繰り返しては胃炎を悪化させて後悔することを繰り返した。
元々あった肩こりがひどくなり、整体院へ通うようにもなった。
偏頭痛もひどい。へとへとだった。
病棟スタッフの冷たい空気や、繰り返される広澤さんの家族との話し合いに精神的にも
満身創痍の気分だった。

照子先生はいつも、私を診てくれた。
軽い安定剤を処方してくれた時は、「戸田ちゃん、もうこれは心療内科の領域だよ。」と言った。
心底心配をしてくれている顔だった。
「休んだ方が絶対にいい!」
照子先生の強い勧めもあって、私は溜まりに溜まった有給と公休を組み合わせて5日間の休みをもらった。
橘師長は「人の少ないときに…」と渋い表情であったが、連日の私の体調不良を察してか休みを取ることを許してくれた。

久しぶりの休みをもらっても、私は何をしてよいのかわからなかった。
福岡の実家に帰ろうかとも思ったが、両親の結婚しろコールの気忙しさを思い出すとうんざりした。
友達に会うかとも思ったが、自分の仕事のだめっぷりを万が一にでも否定されたらと思ってしまう。
今は叱咤激励すら、聞く余裕がない。
振り返ればおかしな精神状態だったが、誰にも会いたくないという気持ちが勝って私は連休の4日間をひたすら引きこもって過ごした。
整体院の予約をしていたことを思い出し、行くのが億劫でなんとかキャンセルの電話をしたら、あとはソファかベッドでゴロゴロとしていた。
洗濯物は溜まり、テーブルにはデリバリーの空と薬が散らばり、休みの最終日なんだからいいかげん片づけなきゃと思いつつ、うとうとしていた。

ピンポーンとチャイムが鳴る。

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