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【舞台感想】僕らに魔法は必要だろうか—演劇×手品の難しさ【マジック感想】

はじめに

『僕らに魔法は必要だろうか』という演劇×手品をコンセプトに掲げる舞台を鑑賞してきました。

https://twitter.com/bokumahoproject/status/1645054234210209793

私の大まかな感想としては、

  • 手品を演劇に取り込もうとした意欲作として観て良かった。

  • 物語の内容自体は(私の理解できた中では)特段優れているというものではない。

  • 物語を舞台上の表現だけで伝え切ることはできていなかった印象。

  • やはり手品を演劇に組み込むのは難しい。

というものになりました。
この感想となる背景には、根本に手品×演劇の難しさがあると思います。この難しさを言語化することを主な目的に、舞台の感想を書きたいと思います。

大前提として、舞台は意欲的でおもしろいものでした。鑑賞した価値は十分にありました。

まず、マジシャンのルーティンが直接的に演劇の間に挟まっているだけではないところは良かったです。物語の中にしっかり手品が存在していました。
また、手品の道具や現象に脚色することで、本来無関係に点在しているはずの手品が物語によって線で結ばれていく様が素晴らしいと感じました。ただ本から炎が出るだけのホットブックが、手元に炎を出してから炎の移動現象として表現されることで、物語上で炎の攻撃として脚色されていたこと。ダンシングケーン、ゾンビボールを単独で使うのではなく、演者以外の人物の動きと連動させていたことなど、既存の手品の道具や現象への脚色の努力は見ていて嬉しかったです。その他、ブチョーとミレイの演技や、シャチョーの語り方は好きでした。

一方で、上記の大まかな感想で察せられる通り、私の感想はあまりポジティブなものにはなっていません。さらに言えば、「舞台は生物」と言われるにも関わらず、私が観たのは初演のたった一度のみです。そのうえ、私自身の物語の理解力も十分なものであるかは分かりません。そのため、この記事は感想とは言え妥当ではない捉え方もあるかもしれません。特に、舞台を観て感動した方にとっては、この記事を読んで感動体験を損なってしまう可能性もあると思います。

あくまで自分の感想は自分だけのもの。感想は個人的なもの。
このことを前提に、私が舞台を観て「手品×演劇」について感じたこと、考えたこと、なぜ私のように舞台に感動できなかった人間がいるのか、などに興味のある方のみお読みいただければと思います。

章立てとしては、(1) 物語の中身について (2) 物語の外について (3) 手品×演劇の難しさについて の3部に分けて感想を記載します。

物語の中身について

物語にどこまでの整合性や正確性を求めるのかは人それぞれだと思われます。私は今回の舞台を演劇として期待して観に行っていたため、作中で提示される情報は可能な限り考慮したうえで、物語として気になったところについて言及していきます。

魔法と手品と科学の違い

主人公である夢亞莉が入り込んだ空想の世界は、魔法が普通に存在する世界なのでしょうか。怪盗が使っていたのは魔法なのでしょうか、手品なのでしょうか。なぜシャチョーやブチョーは科学の力をもってして魔法を実現させようとしているのでしょうか。少なくとも私にとっては、舞台を観るだけでは、魔法と手品と科学が明確に線引きされているようにはとらえられず、物語の理解の障害となってしまいました。

パンフレットを読むと、明確に魔法を使っていたのはカイトと夢亞莉の2人。空想世界の中で魔法がどれほどまでに普及していたのかは語られませんが、魔法が存在するのにも関わらず、科学で魔法に近づこうとする理由は語られてほしかったです。(例えば、ブチョーは昔魔法を使っていたが、魔法が暴走して大事故を起こしてしまい魔法が信じられなくなったとか…)私にとっては、世界設定が分からないことで、登場人物の行動の動機に疑問が差し挟まってしまい、物語を素直に楽しむことができませんでした。

なお、カフェでタピオカがボールになっていたのが魔法だったのか何だったのかは分かりませんでした。

指輪の万能さと倫理的な制限

指輪の説明のために商品発表会という場があったのは良かったです。ただ、指輪でできることが制限されていなかったのは物語上の問題だったと思います。(ランプの魔人のジーニーさんですら、使う魔法に縛りはありました)

明言されていたのは、死人を生き返らせるのは世界の理に反するため、世界が崩壊してしまうということ。これを理由に、ブチョーはミレイを生き返らせるのを諦めることになってしまうのですが、これはあくまで使用者の倫理的な制限でしかありません。このことを念頭におくと、終盤は「指輪でミレイを生き返らせることはできるけど、世界が崩壊するから倫理的にやめてほしい」とブチョーに理解を促していることになることになります。ブチョーだって世界崩壊のリスクは理解したうえで、禁忌を犯そうとしているわけなので、改めて常識的な説明で諭されたことがミレイを諦める理由になるかというと疑問ではありました。そのため、登場人物の行動の理由にすんなりついていけず、もやもやした気持ちが残ってしまいました。

さらに、指輪の力で時間を戻すことは許されるのに、死人を生き返らせるのはなぜいけないのか、というところも疑問点です。死人を生き返らせることは、時間を戻すことに包含されるのでは…?指輪でできることは万能、ただそれを制限する倫理観の線引きは不明確。これがミレイを生き返してよいかどうかという物語の中心問題に関わる点で消化不良の一因になっている気もしました。

細かいところでは、「すべてを5分前の状態に戻せ」とした場合、指輪の使用者の記憶なども含めて5分前に戻してしまい、永遠にその5分を繰り返すことになってしまうはず。このツッコミは野暮に思えますが、それまでのシーンで指輪を使用する難しさを、機械側の自然言語理解の問題にすりかえてコメディとしています。このスタンスを貫くなら、指輪への願い方とその実現方法についても吟味してほしかったところです。ついでに、時間を戻してもボード上の時計の針が5分戻っていないのも気になってしまいました。

指輪の管理

上記の通り指輪は倫理的な制限を除けば万能でありながら、扱いは難しいものという描かれかたがされていました。それにも関わらず、指輪の管理にはリスクがあるように感じました。

発表会で指輪が盗難の危険に遭ったり、その力のコントロールに課題があるのにも関わらず、そのまま抽選会で人を選ばずに指輪を配ろうとするのはかなり危険に思いました。(ブチョーが裏でコントロールしていた、というのは会社方針とは異なる動きなので考慮には入れません)

装置の存在

私は、倫理的な制限を除けば指輪でどんなことでも実現は可能という受け取り方をしてしまっているため、ミレイを生き返らせるためだけに現れる「装置(LED付きの台)」が必要なのか疑問でした。指輪だけでミレイを生き返らせる力はなく、指輪の力を増幅する台が必要という設定だったりするのかもしれませんが、一度の鑑賞ではそこまで読み取れませんでした。

まわりくどい魔法

本当に制限なしで魔法を使えるのなら、もっと直接的に願いを実現させることはできる気がしました。例えば、最終局面で「装置」を壊すシーン。本当に魔法を使えるのならば、ハンマーを出したうえでハンマーで叩いて壊すという手法はまわりくどいように思いました。指を鳴らして装置が爆発する、くらいが直接的で自然なアプローチのように思えます。もっとも、これは後述する手品による魔法の制限の問題もあるのかもしれません。

空想世界のメアリ

作中には、現実世界から空想世界に入り込んだ漢字表記の夢亞莉と、空想世界の中に初めからいたカタカナ表記のメアリの二人が存在していました。

舞台を観るだけでは、この二人の関係、特に空想世界のメアリはなんだったのかがよく分かりませんでした。現実世界の夢亞莉を空想の世界に招待した理由、現実のメアリと直接的に対面せずにカフェの店員として存在していただけの理由。それが分からないため、重要な役回りのように察せられるものの、その正体は謎のままでした。

そもそも、空想の世界に夢亞莉とメアリが同時に存在しているのはなぜなんだ…?

主人公としての現実世界の夢亞莉

パンフレットでも明確に主人公と表記されている現実世界の夢亞莉は、主人公が通常抱える何らかの問題や、期待される何らかの成長や変化を明確に持っていないように感じました。指輪を扱える魔力を持っている一方で、能動的な意思を感じる行動はあまり見られず、どちらかというと傍観者であるような印象でした。

夢亞莉が主人公として持つ問題を読み取ろうとするなら、冒頭で少しくたびれたように登場することから、現実世界で何らかのトラブルや心労などがあったと想像することは可能だとは思います。ただし、その輪郭の見えにくい問題を解決する具体的な何かを空想世界で手に入れたというシーンは思い当たりませんでした。パンフレットでは、空想世界からペンを持ち帰ってきたという記載がありましたが、ペンが空想世界で目立っている印象はなく、ペンや空想世界のブチョーのドラマを経て夢亞莉が明確に何かを乗り越えたような描写も思い出せませんでした。

もちろん、必ずしも主人公が何らかの変化をしないといけない訳ではありません。ただし、主人公である以上、変化しないことを能動的に選ぶなど、物語を通して何らかの感情の変化は期待してしまいました。これがない分、物語全体としての手ごたえが弱く感じてしまいました。

相対的に解決すべき問題と大きな心の動きを表現するシーンのあるブチョーはインパクトのある存在だったと思います。

夢亞莉の空想の世界という設定

昔の自分が作った世界の登場人物、メアリに作者の夢亞莉自身が正体される理由が判然としませんでした。例えば、「空想の世界が大変!力を貸して!」とか、眠ったら空想の世界に吸い込まれていて脱出したい!などであれば、シンプルであるのと同時に主人公が夢世界で行動する指針にもなります。

また、自分が作った空想の世界であれば、夢亞莉は世界の創造主としてある程度いろんなことを知っているはず。怪盗の正体だって知っていても不思議ではないはずです。

物語の外について

ほぼノンバーバルという表現上の制限

私はここまで物語の中身について、主人公である夢亞莉の持つ問題が分かりにくい、魔法と手品と科学の違いが分からないなど、「分かりにくい」ことに言及してきました。当然、分かりにくい物語それ自体が間違っている訳では決してありません。複雑だからこそ味わい深い作品は当然存在します。

ただし、今作について言えば、物語の内容と表現手法の両面から、物語がどこまで伝えられるのかを考える必要はあったと思います。今回はシャチョー以外が基本的には言葉を発することができない分、世界設定や人物設定などを十全かつ明示的に語ることができないのは明白です。これは物語を伝えるという点では大きな制限となります。実際、(私の舞台の理解力の問題もあるとは思いますが)パンフレットを読んで明らかになる情報が非常に多かったです。その中に、舞台上の表現のどれが魔法だったのか、夢世界のメアリは何だったのかという根本的なものも含まれていたのがかなり苦しく思いました。

例えるなら、鉛筆1本と紙1枚を渡されて、カラフルな虹を表現するようなものだと思います。表現したい複雑な物語に対して、表現する手段の制限が非常に厳しいように思います。そのため、劇中でことばによる説明をもっと増やしたり、物語内容を妥協したり、パンフレットの情報の一部を事前にすべての観客がアクセス可能なように配っておくなどの方法は考えられたと思います。

この物語内容と表現方法の制限に対して、(初演ということもあってか)事前にパンフレットを購入できないのも辛かったです。

J-POPの取り扱い

使用される楽曲は、歌詞付きかつ世代を感じるJ-POP曲が多い印象でした。楽曲の好き嫌いを脇に置いても、音楽、とりわけ有名な曲の持つ力は強力なもので観客の心を物語から逸らしてしまう可能性があると思います。

ラ・ラ・ランドの曲だ!と思ったとき、観客は舞台のことではなくラ・ラ・ランドのことを心に思ってしまいます。

仮にノンバーバルだから世界の表現をJ-POPの歌詞に頼る必要があるとしても、本来なんの関連もないJ-POPで物語を繋ぐとすれば、それだけで物語側にも大きな制限が出てしまうようにも思います。

手品×演劇はなぜ難しいのか

ここからが本題になります。手品を演劇に取り入れることによって、一見通常の演劇では実現できない光景を提示できる点でおもしろい作品ができるように思われます。しかし、手品が驚きや不思議を提示するという性質はそう簡単に演劇と馴染むものではないと思われました。

この章は、カズ・カタヤマさんやDr.レオンさんが口にされている「芝居とマジックは相性が悪い」について、その理由や解決方法を自分なりに模索してみるパートになります。(私はこの「芝居」を「演劇」と捉えて考えています)
Dr.レオンさんは「マジック現象は不条理、芝居はある種、条理」と記述されていますが、それとは少し違った観点の考察になります。

「不思議だ」という思いが物語の邪魔になる

私たちは映画やゲームの中で、登場人物が魔法を使っても全く驚きません。ハリーポッターやドラクエの主人公が魔法や呪文を使っても、”そういうもの”だとして驚くことなく魔法や呪文を受け入れるはずです。
(これについては、「不信の宙づり」という用語があるようです)

一方で今回の舞台をはじめ、生で観ることが前提の演劇で「手品=魔法」という体裁を提示された場合、私たちは驚いてしまうはずです。なぜ指輪が消えるのか、どんなトリックを使ったのか、その秘密を不思議に思ってしまうはずです。実際、私はトリックを想像して、物語とは独立して手品を観てしまっていました。

この魔法を見て驚くかどうかの違いは、物語で没入感を重視する立場で考えるとかなり重要な意味を持ちます。なぜなら、手品によって引き起こされる驚きや「不思議だ」という思いは観客を物語から引きはがしてしまうからです。これはすなわち、物語の没入感を損なうことに直結すると思われます。ハリーポッターが魔法を使う度に不思議だと思っていては、観客は物語に集中できないはずです。

演劇で「手品=魔法」として扱うことに無理がある

いくら舞台上で手品によって起こされる不思議な現象を魔法だと言い張ったところで、舞台上で観客が目にするものは手品にほかなりません。この事実を認識することが重要だと思われます。

今回の舞台で私が最も強く覚えた違和感は、「魔法が窮屈」であることでした。設定上は何でもできるはずの魔法は、物語上で倫理的な制約を受けたうえ、語られない大前提として”手品が実現できる範囲で何でもできる”というものになっています。この大きな制限を受けた魔法を提示された今作では、魔法を魔法として心躍るようなものとして受け取ることはできませんでした。

なぜ演劇で手品が使用されると観客が驚くのか

演劇で手品が使われたときに観客が驚いてしまう理由は、単純に演劇の作り手により提示される物語の設定よりも上位に物理的な法則が作用するからだと思われます。いくら舞台上で「手品=魔法」という体裁を整えていたとしても、舞台上と客席の両方には同じ物理法則が作用することに変わりはありません。シルクハットから鳩が出ることはありえず、空の手からトランプが出ることもありません。もしそのような現象が起こるとしたら、それは観客の現実世界の常識に照らし合わせて、手品にほかなりません。これは当然のことのように思われますが、改めて認識しておく必要があることのように感じました。

演劇で手品の「不思議」を守る難しさ

通常、マジックが披露される場ではマジシャンやその道具に適切に注目が集まります。舞台上のマジシャンは一般に一人です。これは手品が不思議を与えるうえで前提となる非常に重要な要素です。実際の手品ではあまり見られませんが、「種もしかけもありません」と明示的にでも暗示的にでも伝えられることは、不思議を生み出すうえで必須なはずです。明らかに仕掛けがあるトランプの柄が変わっても、不思議だと思う気持ちは減衰してしまうでしょう。

演劇では、手品で不思議を生み出す前提となる検めが不十分になる可能性があります。特に今回の舞台では、舞台上に複数の役者さん(マジシャン)が舞台上に存在する場面も多くありました。例えば、カフェに探偵が現れて怪盗を探しにくるシーン。光景としては手品を使って視覚的に気持ち良い刺激が提示される反面、観客としては何人もの役者に十分に注意を払うことができません。その状態で手品の手法を使われた場合、手品によって本来期待されるべき驚きや不思議は減衰してしまうように思われます。このため、複数人のマジシャンの両方が舞台上で現象を起こすマジックは数が多くないのかもしれません。(Ta Na MangaやTempest&Cotyなどは思いつきますが)

一方で各個人のルーティンを演劇に挟む形では、既存のマジックショーに近い形の舞台となり、演劇を前面に押し出す舞台としては個人的な期待から外れてしまうというのもあり、やはり避けてほしいという思いもあり、難しいところです…。

手品を演劇で活かすための方策

ここまで述べたように、単純に手品を演劇で使用すればおもしろい体験ができる、というものではないと思います。課題をまとめると、(1) 手品の驚きや不思議により観客が物語の没入できなくなる (2) 現象が起こる前に注目が集まらないことによって手品の驚きや不思議さが損なわれる の2点です。

あくまで机上の空論としてこれらを解決する方法を2つ記載します。

(1) 物語上の手品師が手品を行う
これは手品による驚きや不思議によって観客が没入感を失うことを防ぐための方策です。魔法使いではなく、手品師が手品をするという体裁をとれば、物語上の手品師以外の登場人物は適切に手品に驚くことが許されます。

手品をみる観客は、物語の手品師でない登場人物と同列に驚くことが可能となり、むしろ驚きや不思議が物語への没入感を深める要素として作用する可能性があると思います。物語の登場人物が驚く対象(=手品)そのものを、観客が丸ごと体験することができるのは、演劇で手品を使う強みになりうるはずです。

仮に魔法使いを登場させる場合でも、その魔法の力を適切に制限を加えることで小さな魔法を違和感を減らしながら提示することは可能だと思います。

(2) 現象を起こすときに、適切に注目を集める
手品をするときにはあたりまえのことかと思いますが、演劇の場合は純粋にマジックをするときより注意が散らばりやすいことを前提に、舞台照明などで観客の視線をコントロールする必要はあると思います。あくまで手品として不思議さや驚きを表現するときには、それは十全に伝わってほしいです。

余談ですが、舞台上で手品を使って驚きや不思議を与えたくない場合、それは手品的な手法を使う必然性はないと思われます。仮に手品の手法で舞台上にビジュアルに物体を出現させたとしても、それは舞台上の便利な進行に過ぎない立ち位置を担うものになってしまうように思われます。

「僕らに魔法は必要だろうか」

ここまでのことを考えたうえで、改めてタイトルの「僕らに魔法は必要だろうか」という問いについて感じたことを整理すると、”私個人としては”この舞台で提示される魔法は私には必要なものとは思われませんでした。

魔法として提示されるものは、物語内の倫理で制限を受けたうえに、手品で実現されることに限られ、窮屈なものだと感じてしまいました。それゆえ、舞台中の魔法は魅力的なものに思われませんでした(手品自体は良いものだったと思います)。物語的にメアリが入った空想の世界のことを魔法だととらえたとしても、空想自体が夢亞莉の成長や変化を及ぼさない点で、重要な価値は感じられませんでした。

一方で、マジシャンたちが演じる舞台ということを加味すれば、きっと「魔法は必要だ」というメッセージを送ってくれているはずだとは信じていますので、自分の理解力の無さや愚考を呪うしかありませんでした。実際にSNS上ではたくさんの良い体験をしたとの感想も見られるので、このようなもやもやした思いを抱いた人間は少数派だとは思います。

おわりに

物語上でルーティンという形式に頼り切らず、手品に脚色をして物語に取り込んだ点ではやはり良い作品だと思いました。
同時に、演劇×手品はそう簡単なものではない、という学びを得られたという点でもこの舞台は良い体験となりました。

演劇と手品は色々なところでトライされているテーマだからこそ、その相性の悪さに向き合った今後の作品に期待したいです。


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