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恋と学問 第23夜、セックスの癒しについて。

諸説ありますが、紫式部の生まれた年は西暦970年という説が有力です。この説に従えば彼女が14才の時(984年)、日本最古の医学書「医心方」が朝廷に献上されました。今夜は、この本を手がかりに紫文要領を読み解き、恋の意味について考えます。

著者の丹波康頼(912-995)は宮廷に仕える医師として、隋唐時代の中国医学は言うに及ばず、僧侶が仏教に付随してもらたらしたインド医学や、朝鮮で独自に発達した処方の数々にいたるまで、古今東西の学説を隅なく調べ上げ、もって生まれた編集の才で「医心方」を書き上げました。当時としてはかなり長寿だった彼の、72才の時の著書です。

紫式部が宮廷に出仕した時期についても諸説ありまして、早いものでは987年、あの藤原道長が正妻の源倫子と結婚した時に、倫子付きの女房になったという説もあり、だとすれば995年に没する丹波康頼が宮廷に勤務していた時期と重なります。

大作家と大学者が同じ空間で生活していたかもしれない。想像力を刺激する仮説ですが、まさか17才の文学少女と75才の老学者との間に交流があったとは思えませんから、想像力は程よく働かすべきでしょう。あまり想像をたくましくし過ぎると妄想になりかねません。

むしろ、私たちが本当に想像力を働かすべきなのは、丹波康頼が亡くなった後のことです。いつしか紫式部は源氏物語を書き始めます。そこに恋の哀れをありったけ詰めこんでいた時に、「医心方」のことがチラッと作者の脳裏をよぎったかもしれない。このように考えるのはあながち妄想ではないはずです。

というのも、「医心方」は鍼灸・内科・外科・歯科・皮膚科・耳鼻咽喉科といった基本的な診療科目のほかに、美容・占い・仙道まで網羅する百科辞典的な医学書ではあるものの、なかでもとりわけ目立ち、古くから読者の関心を集めてきたのは、全三十巻中の第二十八巻「房内」だからです。この巻において房内、すなわちセックスの問題を、日本人として初めてお茶を濁すことなく、正面から論じてみせたからです。

「医心方」は医学書ですから、セックスが人体にどのような影響を及ぼすかを問題にします。ざっくり言ってしまえば、健康法としてのセックスです。セックスを美化しませんが、ことさらに悪い物ともしないのが、「医心方」のセックス観であり、価値中立的で科学的な立場であると言えます。「医心方」の基本的な考え方を一言で表すならば、「セックスは人を癒すことも壊すことも出来る」というものです。

本文から引用してみましょう。「医心方」は医学に関わる漢籍を項目別に引用して編集した書物ですから、文章はすべて漢文になります。

人復不可都陰陽不交/則生癰瘀之疾/故幽閑怨曠多病而不寿/任情恣意復伐年命/唯有得節宣之和可以不損
(丹波康頼撰・槇佐知子全訳精解「医心方 巻二十八 房内篇」筑摩書房、2011年、27頁)

【現代語訳】(私訳。以下同様)
陰陽が交わらない(セックスをしない)のは健康に良くない。交わらないと膿が生じたり気血のめぐりが滞留したりする。独りきりで閉じこもり、世を恨みながら日々を送るような人が長生きしないのは、そのためである。とはいえ、欲望に任せて自由に交わるのも寿命を縮める。節度をもって交わること。自然の摂理と調和すること。それさえ出来れば身体を壊すこともない。

さて、「節度あるセックスは人を癒す」と言いますが、その節度の基準はどこに求めれば良いのでしょうか?「医心方」の議論を整理すると、次に挙げる四つの項目に分けることが出来ます。

1.性交頻度
2.性交対象
3.性交人数
4.性交方法

それぞれについて、かんたんに紹介します。


1.性交頻度


人有強弱年有老壮/各随其気力不欲強快/強快即有所損(同196頁)


【現代語訳】
身体が強い人もいれば弱い人もいて、老いた人もいれば若い人もいる。それぞれの気力に応じた適切な頻度のセックスを心がけよ。むやみに快感を求めてはならない。むやみに快感を得れば必ず健康が損なわれる。

セックスを頻繁にすると疲れるのは誰もが認めるところでしょう。ちなみに「医心方」が定めるセックスの上限回数は以下のとおりです。

15才:1日2回
20代:1日2回、疲労時は1日1回
30代:1日1回、虚弱体質は2日1回
40代:3日1回、虚弱体質は4日1回
50代:5日1回、虚弱体質は10日1回
60代:10日1回、虚弱体質は20日1回
70代:30日1回、虚弱体質は禁止


2.性交対象


夫男子欲得大益者得不知道之女為善/又当御童女/顔色亦当如童女/女但苦不少年耳/若得十四五以上十八九以下還甚益佳也(同39頁)

【現代語訳】
男がセックスによって大いに健康を増進させようとするならば、いまだその道を知らない女(処女)を得ると良い。幼女を相手にセックスすれば、男の顔色も幼女のごとく若返る。性交対象を選ぶ際には、何にもまして若さを基準にせよ。14・5才から18・9才の間ならば、甚だ利益があって望ましい。

おぞましいことを主張しているように受け取ってしまい、目を背けたくなるかもしれません。現に、訳注を担当した槇佐知子さんは次のように解説しています。

明らかに男性本位そのものの房内術である。これを読めば女性たちの怒りを買うこと必至である・・・近年、日本の男性たちが東南アジア諸国へ行き、低年齢の少女を性の対象としてあさる国辱的な行動が、盛んに取り沙汰されているのは実に嘆かわしい・・・かつてはロリータ・コンプレックス(ロリ・コン)といい、成人女性を相手にできない倒錯心理の持ち主のことをいったが、現代では自己中心の欲求をみたすために、他国のいたいけな少女たちを凌辱しているのだ・・・このような風潮を是正するためにも、批判精神を持って読んでいただきたい(同35~36頁)

槇さんの気持ちも分からないではない。しかし、「医心方」のセックス観を、男尊女卑やロリコンなどと同列に並べた上で、そこから何を学び取れるのかは疑問です。現代の価値観に合わない箇所を見つけて、それを批判することも、批判したことで「うまいことを言ってやった」気になるのも個人の自由ですが、たいていは実りのない自己満足に終わるだけでなく、古典から学びとるべき知恵の泉を枯らしてしまう。槇さんの解釈の問題については次項でも述べます。


3.性交人数


欲行陰陽取気養生之道不可以一女為之/得得三若九若十一/多多益善(同40頁)

【現代語訳】
セックスを行うことで気を充実させ養生しようとするならば、一人の女とばかりセックスしてはならない。三人、九人、十一人と、次々に女を手に入れよ。性交人数が多ければ多いほど、セックスから得られる利益はますます大きくなる。

これまたずいぶん非常識な主張をしていると、不快に思う人もいるでしょう。しかし、不快に思う人は二つの点に注意しなければなりません。

一つは、対象にしても、人数にしても、「セックスを行うことで健康になろうと望むならば」という条件のもとで、この対象、この人数を相手にすれば良いとすすめているだけであって、それを望まない人には強制していないという点です。言うまでもなく健康になるための方法は、セックス以外にも幾らだってあるわけです。数ある健康法の中から、あえてセックスを選ぶならば、こうすると良い。この意味合いを「乱交のすすめ」のように取り違えるのは単なる誤読であり、誤読に基づく批判は不当です。

もう一つは、科学の言説において事の成否を決定するのは実証のみであり、実証された事実に反論できるのは反証のみである、という点です。「健康法であろうが何であろうが関係ない。このような主張自体が不快なのだ」という人は、ただ言説に対する不快感を表明するだけでなく、このような主張をするだけでも道徳的に批判にあたいすると考えがちです(槙さんのように)。ですが、それは科学の問題に価値を持ち込むという初歩的な過ちを犯しています。「医心方」は医学書です。科学の議論に反論するには、「性交対象はむしろ◯◯の方が健康に良い」とか、「性交人数の多寡と健康の間には因果関係がない」といった、反証を挙げる以外にありません。


4.性交方法


還精補脳之道交接精大動欲出者急以左手中央両指却抑陰嚢後大孔前/壮事抑之長吐気併㖨歯数十過勿閉気也/便施其精精亦不得出/但従玉茎復還上入脳中也/此法仙人以相授皆飲血為盟/不得妄伝/身受其殃(同189頁)

【現代語訳】
還精補脳の方法。セックスして精が大いに動き、体外に出しそうになったら、急いで左手の人差し指と中指とで陰嚢と肛門の間を抑え、出てゆくのを押し止める。精の勢いが盛んで、この方法では押し止められない時には、長く息を吐きながら何度も歯を噛み合わせる。その間、息を止めてはならない。こうすれば精が体外に出てゆくことはなく、精管から脳内へと還流するのである。この方法を仙人が伝授する際には、皆に血を飲ませて、口外しないと誓わせたものである。軽い気持ちで人に伝えないように。誤って用いれば、むしろ身体を壊しかねない。

「医心方」がすすめるセックスの方法で、特筆すべきこととしては、(1)体位の多様性、(2)前戯の重要性、(3)秘技としての「還精」があります。

一つ目、いわゆる体位については、たしかに多種多様な記述があるので、性の聖典(性典)として受け取られる元になり、常に好奇の眼にさらされてきたのが「医心方」の悲しい歴史なのですが、よく読むと意外なことに気付きます。紹介されているさまざまな体位は、快感の最大化を目的にするのではなく、あくまでも健康の増進を最終目標に置き、体位によって得る快感は、目標達成の手段としての位置付けにすぎないのです。

二つ目、前戯にしても同じことです。「医心方」が前戯の重要性を強調するのは、前戯が互いの快感を高めるだけでなく、これを調整してくれるからです。これを「和志」(心の融和)と言います。同じ高さに調整された互いの快感によって、そのまま円滑かつ円満にセックスに移行できるようになります。円滑かつ円満なセックスは健康増進に寄与するため推奨されます。反対に、充分な前戯を伴わない乱暴かつ無情なセックスは身体を傷つけるために禁止されます。

以上に見たように、体位にせよ前戯にせよ、快感の最大化を目的にした技術と受け取るのは誤りです。「医心方」は性典(セックスのバイブル)ではなく、セックスを「癒し」(広義の医療行為)と捉え、その効果が最大化する条件を見定めようとした医学書なのです。

その究極の形が三つ目、引用した「還精補脳」です。これは男性の射精を禁止する性交方法であり、「医心方」の目指すセックスの理想が、快感の追求どころか、その抑制にあったことは明らかです。セックスの乱用による心身の破壊を防ぎ、その抑制的使用によって健康増進をもたらそうとした「医心方」。セックスの問題に真正面から答えようとした、その真摯な姿勢から、私たち現代人は多くのことを学ぶことが出来ます。



さて、そろそろ私たちの本題に戻りたいのですが、源氏物語(あるいは紫文要領)における恋と、「医心方」におけるセックスの関係について、少しばかり考えてみたいのです。

私たちは「セックスは恋の延長線上にある」と考えがちですが、これは幼稚な思想です。むしろ、「性衝動が恋心を駆動させている」と考える方が正しい。恋心が生じて、そのあとにセックスするのではない。先に性衝動があって、そのために恋心が生じるのです。

性衝動は、暗い、手の届かない「無意識の領域」に住まうため、元より意識が制御できるような相手ではありません。だからこそ、恋は制御不能なのです。性衝動が意識による制御を受けないからこそ、恋心の発生を予見することも出来ないのです。

「医心方」は、いきなりセックスの実行段階から議論を始めて、その制御を問題にしています。しかし、本当の問題はもっと手前にあるのではないでしょうか?「医心方」が主張する「癒し」は、「心の融和」(和志)を前提にしていますが、それが得られないから、私たちは悩んでいるのではなかったでしょうか?

「医心方」がセックスの問題を深く追求しながら、結局セックスの本質に到達しなかったのは、恋心の発生とセックスの関係について論じることを避けて、両者を切り離し、後者を単独で取り上げて論じてしまったからです。

本居宣長が紫文要領で取り組んだ課題の核心は、まさにそこにありました。源氏物語は猥褻な文書ではない。勧善懲悪を説く道徳書でもない。恋を中心に据えて、人の心と人生の味わいを表現し尽くした文学である。そのことを証明するには、「恋とセックスは切り離さず統合的に理解されるべきものである」ということを、どうしても主張しなければならなかったのです。

「医心方」は源氏物語と同時代に書かれ、源氏物語に近い課題を背負って登場した書物ではありますが、恋心の発生とセックスの関係という、重要な考察をしなかったために、中途半端な結果に終わったのでした。

・・・いやいや。それは「ないものねだり」ではないのか?恋心の発生など、医学が扱うべき範囲を越えているのではないか?こういう反論が聞こえてきそうな気配です。しかし、果たしてそうでしょうか?

かつて、恋心の発生とセックスの関係を、医学的に解明しようとした人がいました。彼の名はジークムント・フロイト。次回は彼の思想から、紫文要領を読み解きます。

今夜はこのへんで終わりましょう。

それではまた。

おやすみなさい。




【以下、蛇足】




今回は前回の流れから、思い切って、一気にセックスの問題に入りました。出来れば避けて通りたいくらいなのですが、避けられるものでもありませんので、覚悟を決めて始めます。

今回と次回は紫文要領から引用も少なくなります。遠回りをしているように感じられるかもしれませんが、そうではありません。「しのびがたき心はわが心にもかなひがたし」(岩波文庫版「紫文要領」112頁)・・・「恋する心は我が心ながら、どうすることも出来ない」という宣長の言葉に含まれた、豊かな意味合いを汲み尽くすために、これはどうしても必要な作業なのです。

引き続きお付き合いくださると幸いです。

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