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島崎藤村「夜明け前」について③

9.思想と生活の重なり

夜明け前における学問の扱われ方は、島崎藤村の学問観を色濃く反映していると思われる。

半蔵が学問によって奇人視され部外者になったことはすでに述べた。彼の同門はどうか?いずれも明治の現実に失望し、不遇や没落といった憂き目を見た点では、半蔵とそう変わらない。

今は師も老い、正香のような先輩ですら余生を賀茂の方に送ろうとしている。そういう半蔵が同門の友人仲間でも、香蔵は病み、景蔵は隠れた。これには彼も腕を組んでしまった(第二部下、77頁)

ただしこれは、学問と生活が原理的に折り合わないことを意味しない。問題は学問自体にあるのではなく、平田篤胤の学問の特異性にある。平田派国学の政治思想が、現状を批判するに留まらず、変革するのを目的とするものだったために、ともすれば今ある生活を否定する傾きがあったからだ。

私は読んでいて、幸福な学問と不幸な学問という対比について、考えざるを得なかった。今の関心事に引き寄せて言うと、本居宣長は幸福な学問をやり通せた人だと思う。宣長の生活は学問によって脅かされることがなかった。宣長の師、賀茂真淵はどうか?宣長よりはエキセントリックな生活者だったようだが、それが元で迫害されたわけではなく、ただ単に変わった人と受け止められたに過ぎない。

思想の自由を確保するために、実生活では常識に従った。そう告白したのは、近代フランスの哲学者デカルトである。しかし果たして、生活と整然と分けられる思想などあり得るのだろうか?生活の土台の上に建たない思想に重みがないように、思想に従わない生活など単なる妥協ではないだろうか?

デカルトにこだわれば、彼の場合、思想の結論として出てきたボンサンス(良識)が生活を規定したと見るべきで、あの告白は虚偽の告白、控えめに言ってもレトリックである。生活が思想の結果であるということ、これは真淵や宣長にも言えることで、幸福な学問の条件なのかも知れない。

ひるがえって篤胤はどうか?彼の生活も思想の結果と言えなくはないが、両者の関係は特殊なものだった。かんたんに言えば、彼は思想によって生活を破綻させた人だ。そればかりか、人々を駆り立てて彼らの生活に変更を迫った人だ。なにゆえに、こうも違うのだろうか?

つまるところ、篤胤の学問の目的に、究極の原因がある。彼の学問においては、学問することが学問の目的になっていない。そこが最大の問題なのだ。彼は学問の結論(エキス)をすでに保持した状態から、思考を始める。いわく、古代の姿は真淵宣長が明らかにした。漢意(からごころ)を捨てよ。これだ。認識の段階はもう終わっている。今は実践の時なのだ。・・・・聞き覚えがあるロジックである。

哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。重要なことは世界を変えることである。(カール・マルクス「フォイエルバッハについての11のテーゼ」)

篤胤にせよ、マルクスにせよ、実践を声高に叫ぶ学者の視線の先にあるものは、学問ではない。学問はどこに行ったのか?彼の「手」の中にある。彼は学問を文字通り「手段」にする。彼の本当の目的は別にあるからだ。彼は彼の理想のためなら己を含む人々の生活を壊すことすら厭わない。

真淵・宣長の学問はそんなものではなかった。たしかに彼らは現代を批判した。漢意(からごころ)を捨てろと、一見すると、他人の精神生活に変更を求めるかのような言葉も吐いた。しかし、それは思想の結論であって、思考の過程で凝縮されたエキスであって、学問の目的ではなかった。学問の目的は、学問する喜びの中にある。発見の驚きの中にある。たとえ発見されたものが、彼の生活に改変を強いるものだったとしても構いやしない。それは今ある生活を否定するものではなくて、その上に重なるものだからだ。近代に古代が重なることで、彼らの豊かな重層的生活は可能になった。

人は複数の根を持つことを欲する。・・・・かれの生活がおのれ自身による、おのれ自身の不断の創造であるような、そういう運命以上に人間にとつて偉大な何物をも考えることができない(シモーヌ・ヴェイユ「根を持つこと」)

思想が生活に重なる時、生活の変革は果たされる。それはゆっくりとしか進まないかもしれないが、解釈をやめないかぎり着実に進む。自己にも他者にも「思想か生活か」の二者択一を迫り、解釈が終わった先にのみ変革があると思い込んだ篤胤は、そうした学問の本当の味を知らなかったのだと見なさざるを得ない。夜明け前には、彼の弟子・半蔵がそれを晩年に思い知る場面がある。

これは宣長翁のようなまことの学者らしい学者にして初めて成し得ることで、先師ですらそこへ行くと果して学問に適した素質の人であったかどうかは疑問になって来た(第二部下、294頁)

先師・篤胤の思想を疑問視することは大きな苦痛を伴う。己が一生をかけて信じ、学んだものは何だったのか?半蔵は沈思する。作者は半蔵のモデル、彼の父に対する無限の愛情で、この鎮魂の言葉を綴ったにちがいない。


10.個人と時代の絡まり

半蔵の時代への接し方、その濃度を見ていて、新鮮さと戸惑いが同居した、妙な心地がした。何がそんなに戸惑わせたかと言うと、彼の「時代に応答せねばならぬ」という義務の観念と、「私は時代の要請に応えうる立場の人である」という自負の念が、この現代に生きる私たちの歴史感覚からいかに遠いことか。その隔たりを意識せずに読むことはできなかったのである。

夜明け前の執筆年代にも注目せざるを得ない。1929年から1935年にかけて、満州事変五・一五事件国際連盟の脱退など、国内の矛盾の噴出と国際秩序の再編成が同時進行する激動の時代に、夜明け前が執筆されたということは、執筆の動機が作者の内面の危機と深く関わっていたと考えられる。思うに、島﨑藤村は「時代は要請する」というテーゼを固く信じていた。しかし、「個人は応答せねばならない」というテーゼについては、悩みながらこれを信じることができなかった。個人が応答するには、彼の属した歴史の要請は大きすぎ、身近なものでもなかったからだ。

歴史の要請に個人は答えなければならないし、答えるだけの能力があると、広く信じられていた時代があった。島﨑藤村はその事実を生き生きと描くことによって、それとは対照的な時代、作者自身が参加している時代の輪郭を浮き彫りにしたかったのかもしれない。

そこで私の想像は現代に飛ぶ。現代とはどんな時代か?夜明け前が提起する問題に即して言えば、時代の要請が存在するとは到底信じられないし、仮に存在するとしても個人の力量では答えられる自信がない、という「二重の不信」が広く共有されている時代だと思われる。

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作者・島﨑藤村にとって、夜明け前を書くことによって父の時代の有り様を想像することが、己の時代の課題を考えるヒントになったのと同じく、私たちにとって、夜明け前を読むことによって幕末明治と昭和前期の時代の姿を思い描くことが、私たちの時代の本質を見抜くヒントとなるのではないか?

時代の要請に答える力について考えた時、私の脳裏に責任を意味する英語、Responsibilityが浮かんだ。この言葉は、Response(応答)とability(能力)に分解される。応答する能力を有することが責任を有することだ、という含意がある。現代フランスの哲学者・レヴィナスが彼の思想の基礎に据えた言葉だ。時代の声を捉える聴力と、それに答える発話能力を失い、ぼんやりと流れに身を任せていながら、それを無責任とも考えていない人々による時代。それが現代なのかもしれない。たしかに、能力のない所に責任は生じない。

むろん、時代の要請などハナから存在しないという「信」もありうる。だから応答する必要もない、と。ただし、この立場を採るならば、時代と無縁に成り立つ個人の存在を信じるならば、時代によって流されない不動の自己を確立しなければならない。これは時代に応答しようとして発狂した青山半蔵よりも、時代に応答できないことに悩み苦しんだ島崎藤村よりも、困難な道だという気がしてならない。

各時代の個性に応じて、個人と時代がどのように絡まっていて、本来であればどのように絡まるべきなのか。夜明け前が格闘した課題は、そのまま私たち読者の課題でもある。

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