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島崎藤村「夜明け前」について④【完結】

11.父がいた時代

夜明け前は、「子にとって父とは何か」という主題にも取り組んでいる。それは単に、主人公・青山半蔵のモデルが作者の父・島崎正樹であることだけでなく、半蔵と彼の父・吉左衛門の関係が、他のどんな人間関係よりも丁寧に描かれていることからも、容易に読み取れる。

父・吉左衛門は、基本的に半蔵の理解者として描かれている。継母も、妻も、子供たちも、村の農民も、馬籠以外の木曽路にある宿場町の庄屋仲間も、半蔵の理解者とは言いがたい。父は自分自身、若き日に学問を志しながら、15代も続いた家業を傾けてはならぬとの気持ちがあり、夢なかばに諦めた経歴を持つ人だったことから、息子の不器用な生き方をできるだけ承認してやった。半蔵はそんな父に頭が上がらなかった。

半蔵は父を慕う心において異常な気味すら有った。たとえば父が病むと、馬籠から60キロも離れた王滝の御岳神社に参籠して、病気平癒を祈願した。半蔵の隣人で、良き相談相手でもある伊之助は、青山親子の関係性を、自分には到底理解できないものと思って眺めている。

いかに父親思いの半蔵のこととは言え、あの吉左衛門発病の当時、仮令(たとい)自己の寿命を一年縮めても父の健康に代えたいと言ってそれを祈るために御岳参籠を思い立って行ったことから、今また不眠不休の看護、最早三晩も四晩も眠らないという話まで、彼伊之助には、心に驚かれることばかりであった。
「どうして半蔵さんは彼様(ああ)だろう」
(第二部上、263-264頁)

こうした父子関係を設定した上で、島崎藤村は半蔵の屈折した心理を描写する。半蔵の仲間たち、すなわち平田学の同門は、幕末の世にあって、京都で、江戸で、せわしなく政治に明け暮れていた。彼らは半蔵も参加するよう繰り返し誘う。しかし、半蔵は駅長の立場から動かなかった。誘惑に負けそうになりながら、何とか持ちこたえた。ある日、義兄の寿平次が半蔵に、吉左衛門から聞いた話として、息子が家出しないか心配していたと伝えた時、半蔵の本音が洩れている。

「いや、あの阿爺(おやじ)がなかったら、とッくにわたしは家を飛び出していましょうよ」(第一部下、80頁)

つまり、この特別な父子関係には、半蔵の行動を抑制する作用があったということだ。仲間たちが「王政復古」という壮大な目標に向かって華々しく活躍するのを尻目に、「庄屋には庄屋の道があろう」(第一部上、416頁)と決意する半蔵がいた。

だからこそ、父が亡くなった途端、半蔵を抑制する者がいなくなった途端、夜明け前は突如として荒々しいドラマ性を帯びてくるのである。木曽山林事件の嘆願書を作ったかどで戸長を免職され、教部省に勤務して早々に同僚を殴って退職し、天皇の御輿に憂国の歌を記した扇子を投げつけて逮捕され、隠棲を命じた長男に暴力をふるい、故郷の寺に火を放った。狂人であると医師に診断され、家族の総意で座敷牢に幽閉されてまもなく、衝心性脚気のため死亡した所で、物語の糸はぷつりと切れる。そこまで休まる暇がない。

すでに述べたように、半蔵の前半生は「時代の動きを観察する定点」だった。後半生は急転回して「自ら時代を動かそうとして挫折する人」になった。この移行をかんたんに説明してくれそうなファクターは、明治維新によって庄屋から戸長に立場が変化したことだが、これを移行の理由と見なすのは不正確である。

たしかに、庄屋の職を解かれて戸長に任ぜられることは、駅長業務をやめて行政的な業務に専念することを意味した。駅長として人と物の流れを見つめる役目は終わった。しかし、明治維新はまだ父の存命中に起こった出来事であることを見逃してはならない。そして、「以前に比べると、なんとなくあの半蔵が磊落になったというものもある」(第二部上、369頁)と、半蔵の変化を指摘するウワサが村中に広がり始める記事が、父の死去の直後に置かれていることも注目に値する。ターニングポイントは明治維新ではなく、父の死だったのだ。

作者・島﨑藤村は何を伝えたかったのか?激動する時代の中にあっても、父の死以上に、子の人生を変えるものはなかった、と語ることを通じて。

物語を整理する。

父は子を承認する。子はそれを早かれ遅かれ有難いことと思い知る。子は自身の行動の基準となる思想がないわけではないが、父のために抑制的に行動する。父の存在は思想より優先して行動を律する原理のごとき役割を果たしている。この父子関係が崩れるには父の死を待つ他はない。通常であれば、このタイミングで父子関係を変更し、半蔵は彼の子の父として、子を抑制する原理とならなければならなかった。そのためには、彼自身が落ち着きのある成熟した行動原理を身に付けている必要があった。

しかし、彼は晩年に至るまで父になりきれなかった。かつての弟子・勝重から「どうして、お師匠さまはまだまだ年寄の仲間じゃない」(第二部下、301頁)と思われるほどに。彼が父になれなかったのは何故か?父の死をきっかけにして、それまで抑制的にしか存在できなかった彼の思想が、父の存在に代わって彼の行動原理となったからだ。不幸にも、彼が信じ、自らの行動原理とした思想は、「永遠に若い思想」だった。

父になることを、人が成熟することを、さまたげる思想とは、いったい何だろうか?そんな思想に価値などあるものか。島﨑藤村はそこまで踏み込んで言わないが、言外の意図は明らかだろう。とはいえ、平田篤胤の思想を批判するのが狙いなのではない。篤胤の思想を必要とするほど、明治という時代が若かった。成熟の不可能を運命付けられた時代に、いかにもふさわしい思想が幅を利かし、個々人の生活を内部から破壊していった。だとすれば、青山半蔵の狂気は時代の狂気と何が違うのか。作者が父への哀惜を隠さずに訴えるのは、このことだ。

意図してかどうかは知らないが、こうして造型された父の肖像は、近代日本文学の作品にしばしば見られる、「書こうと思うのに書けない」とボヤく私小説作家の姿と良く似ている。悩みの度合いが異なるのはむろんのことだが、果たすべき仕事が時代の制約を受けて果たせない、という大枠において両者は変わらない。

この相似関係の意味は、ふた通りに解釈できる。作者が父を自身に重ね合わせ、父と祖父の関係を描くことで、父子関係を獲得しようとしたこともあるだろうし(島﨑藤村はわずか12才で父を亡くしている)、明治から昭和まで一貫して、近代日本国家の民びとには、ついに成熟の機会が訪れなかったという、作者一流の歴史観の表れだったこともあるだろう。

後者の意味合いの方が強かったと仮定しよう。私は作者の歴史観を継いで、その先まで言ってしまいたい。平成から令和までだって成熟の機会は訪れなかった、と。夜明け前というタイトルは普通、明治維新の前夜を意味すると受け取られているが、そうではない。夜はまだ明けていない。私たちが成熟の機会を得て、父となり、母となるまで、夜は明けない。

夜明け前とは現代の別名である。


12.あとがき ~ ルーツを探る旅について

ここまで書いて、私は我に返る。思えばこの文章は、私自身のルーツを探る旅、伊那の旅をきっかけにして始まった。夜明け前と出会って読んで、その結果、私の旅はどうなったのだろうか?

島﨑藤村は父を書いて父を知った。彼にとっては父について書くことがルーツを探る旅だった。その質量は圧巻の一言に尽きる。これと比べて、私が企てた旅の内容の、なんと貧相なことか。

後悔しているのではない。むしろ逆で、ルーツを探る旅の先輩が、立派なものを残してくれたお蔭で、より豊かに旅するヒントを与えてくれたと思うのである。夜明け前の読書体験は、私の旅にとって大いに刺激となり、旅を継続すべき理由となった。

最後に、たいへん個人的なことを付け加えれば、はじめて島﨑藤村の作品を読んだのは20年も前、彼のもうひとつの代表作「破戒」を読んだ時だが、肌が受け付けないというくらい、好きになれなかった記憶がある。今回、島﨑藤村に再び出会い、全く違う感想を持ったことは、旅をきっかけに偶然手に取った私としては、まことに幸運と思うほかない。

旅は旅人に何をもたらすのか。分からないところに旅の妙味があるのだ。どこに行き着き、どこへ帰ってゆくのか。分かりきった旅など面白くも何ともない。松尾芭蕉の「奥の細道」のように、もう帰れないかもしれないと覚悟を決めてかかってはじめて、旅は大切な何かを私たちにもたらす。

2022年3月11日 脱稿

【完】

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