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秩父「城峯山」と平将門【山と景色と歴史の話】

いにしえより地域の人々を魅了してきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
関東地方における平将門もそんな1人だ。
埼玉県は秩父地方の城峯山周辺に残る“将門伝説”を紹介する。


弱きを助け強きを挫く――民衆の味方

「峠」は室町時代に作られた国字(和製漢字)だという。
確かに、奈良時代末期の成立とされる『万葉集』を眺めると、「峠」に該当する地名には「坂」の字があった。当時、足柄の坂より東、碓氷の坂より東を「坂東」と呼んだ。

「坂」は「境」と語源が同じで、足柄の坂は現在の静岡県と神奈川県の境にあたる足柄峠、碓氷の坂は長野県と群馬県の境にあたる碓氷峠を指す。つまり「坂東」は関東地方の古称で、相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野を合わせて「坂東八カ国」といった。

平安時代のなかば、京の朝廷から「坂東」に派遣された各国の国司を追放し、「坂東八カ国」の独立を宣言した男がいた。日本史上唯一、自ら「新皇」を名乗った平将門だ。

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華やかな王朝文化が花開こうとしていた時代、京から遠く離れた「坂東」の地で起こった「平将門の乱」は朝廷や貴族たちを震撼させた。そして彼らは「朝敵」「反逆者」として将門を忌み嫌った。

その一方で将門の行動は、国司の圧政に耐えかねていた「坂東」の人々には共感を持って受け入れられたという。彼らは自分たちの思いを体現してくれた将門を「解放者」として支持した。そして弱きを助け強きを挫く「英雄」として語り伝えてきた。

「朝敵」「反逆者」「解放者」「英雄」――平将門とは、いったい、どんな男だったのか。

坂東の顔役、調停者として奔走

平将門は、桓武天皇の子孫・高望王の孫にあたる。高望王は臣籍降下して「平」姓を得、上総の国司として下向したまま土着した人物で、その3男・良将(良持とも)の子が将門だ。

将門の父・良将は下総を本拠に未墾地を開発して勢力を拡大し、兄2人を飛び越えて朝廷から鎮守府将軍に任命されるなど、一族のなかでも一目置かれる存在だった。将門の名が坂東一円に轟いたのは、良将の死後、その遺領などを巡る伯父たちとの争いを制したことによる。

一族の内紛を収拾した将門は、近隣の豪族や農民たちの信望を集めるようになる。そして「坂東」の顔役のような存在となった彼は、国司と郡司の紛争や豪族同士の争いに調停者として積極的に介入した。
そんななか頼ってきたのが常陸の国司に追われていた豪族・藤原玄明だ。

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玄明を庇護した将門は、国司に玄明の免罪を求めたが聞き入れられず、交渉は決裂。やがて両者は交戦状態となり、将門が常陸の国府を占領したことで、彼は「朝敵」となった。

そして天慶2年(939)12月、将門は下野・上野以下「坂東八カ国」の国府を制圧し、新たな国司に身内や重臣を任命、自らは「新皇」を称して下総に「王城」建設を宣言するが、2ヵ月後の翌天慶3年2月14日、朝廷の追討使に呼応した藤原秀郷や平貞盛らによって討ち取られてしまう。

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将門最期の日、秀郷・貞盛率いる連合軍3000に対し、将門軍は400だったという。この日は新暦の3月25日で、坂東の村落では1年の収穫を左右する田起こしの時期に当たっていた。「坂東」の顔役として奔走した将門は、しばしば調停のために兵を動かしたが、農繁期には兵の多くをそれぞれの村に帰していたという。

また彼は戦の最中でも敵の婦女子を手厚く保護したとも――そんな将門の性格を慕う人々が「坂東」には大勢いたのだろう。そのことは現在も関東各地に残る“将門伝説”が物語っている。

桔梗の花と鯉のぼり

埼玉県の秩父市、秩父郡皆野町、児玉郡神川町の境に位置する「城峯山」(1,038m)や、その麓・神川町の 矢納地区にも“将門伝説”は伝わっていた。

一説には将門の弟・将平の伝説・伝承が影響しているともいわれるが、城峯山の“将門伝説”は、下総での追討軍との戦いに敗れたあと、将門が城峯山で再起を図ろうとしたものの、愛妾・桔梗の裏切りによって儚い最期を遂げたため、城峯山中では現在でも桔梗の花は咲かないというもの。

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また、矢納地区の“将門伝説”は、将門が城峯山に籠もっているとき、矢納の民家で揚げた鯉のぼりが敗因となったため、同地区では現在でも鯉のぼりを揚げることはないというものだが、鯉のぼりは江戸時代に町人層のあいだで生まれたとされ、そもそも平安時代にはなかった。

「桔梗の裏切り」も「矢納の鯉のぼり」も伝説・伝承の域を出ないが、思いがけない最期を迎えた将門に対する人々の同情や後悔、無念さは伝わってくる。

また、「秩父小唄」にはこんな一節もあった。
「秋の七草うす紫の花の桔梗がなぜ足らぬ、城峯昔の物語」
城峯山周辺に伝わる“将門伝説”を信じるのなら、この山からみた景色が“平将門が最期にみた景色”ということにもなる。(了)

※この記事は2020年9月に【男の隠れ家デジタル】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

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