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織田信長と豊臣秀吉|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか?【戦国三英傑の採用力】

「人手不足」と「人材不足」は違うという。

“人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。
前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。

コロナ禍以前は“人手”不足が全国的に注目されていたが、コロナ禍以降、激動する経営環境の中、思い切った事業再構築などに挑戦する“人材”不足も浮き彫りになってきた。

戦国という激動の時代、武将たちは権謀術数の限りを尽くして覇権を争ったが、この激戦を制するカギは武勇のみならず知略に通じた“有能な武士”たちをいかに獲得し、定着させ、起用するかだった。

人材こそがすべて――これは現在も昔も変わらない。

戦国三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとに、なぜ“優秀な人材”が集まったのか?
彼らを支えた重臣を中心にみていきたい。


「食えぬなら食えるところで働くだけよ」

応仁の乱(1467~77)、そして明応の政変(1493)以降、室町幕府の凋落とともに伝統や家格といった中世的なあらゆる体系が崩壊し、日本は約100年に及ぶ、戦国の動乱へ突入する。

戦乱の世は、身分の低い者が上の者を倒してその地位を奪う“下剋上”の時代だった。やがて守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現。その数は150とも、300ともいわれ、彼らはそれぞれの地域で自らの領土を拡大するため、戦を繰り広げた。
当然、戦をするには軍事費が必要となる。戦死者・負傷者が出た場合も、出費となった。にもかかわらず、なぜ戦国大名は戦いつづけなければならなかったのか。
その大きな要因は、当時の主君(戦国大名)と武士(家臣)の主従関係にあった。

戦国時代の主従関係は、きわめてドライだ。

戦国の武士は、無事泰平の世を生きた世襲制の武士のように、もっともらしい顔で「武士は、二君に仕えず」と言ったり、“清貧”という言葉を盾に「武士は食わねど高楊枝」などと痩せ我慢したりはしない。

「食えぬなら食えるところで働くだけよ」

彼らはそう言って、あっさり牢人となり、主君を変えた。

殺るか、殺られるかの“弱肉強食”の時代だ。
戦国の武士は、家を存続させるため、よりよい生活をするために、武力も財力もある強い主君を求めた。
だから主君である戦国大名は、何より強くなければならなかった。軍事費を捻出するためにも、常に他国・他領へ攻め込み、そこで奪い取った土地を彼らに恩賞として与えなければならなかった。

「わがままを許さないことだ」

「七たび牢人せねば、武士ではない」といわれた戦国時代、主君の恩賞に満足できず、ある者は「これだけだと? ふざけるな!」と飛び出し、ある者は「そうですか、わかりました」と静かに去っていった。

牢人となった彼らは、槍を肩に担ぎ、具足を背負って戦国の荒野を闊歩する。より高く自分を買ってくれる主君のもとに身を寄せて、戦となればわれ先にと、血しぶき舞う戦場を駆けた。そして敵の首を掻っ切っては、どうだと言わんばかりに天高く掲げる。

彼らの恩賞に対する執念、自己主張たるや、生半可なものではない。おそらく、なかには自分の実力を勘違いした者、自己主張と自分勝手の意味を履き違えた者もいる。そのあたりは、現在も昔も変わらない。

そんな牢人たちを、織田信長(1534~82)はどうまとめたか。

「わがままを許さないことだ」

身も蓋もないようだが、この一言に尽きた。

信長の生涯の分岐点となった美濃攻略戦の頃のこと。自国である尾張に美濃を加えれば、天下取りへの道がひらける――この勝敗で今後の人生が決まる――そうみた彼は、金に飽かせて牢人を雇い入れた。
信長は伊勢湾貿易に従事しており、商いが利を生むことを知っている。
そうした信長は、家臣に強権を発動し、絶対服従を強いて自分への恐怖心を植えつけていった。

そもそも信長は家臣の人間性など斟酌しない。彼は人を道具のように捉え、性能のみで考えていた。だから身分を問わず、平等に機会を与え、才覚を発揮した者を抜擢した。
そして美濃を統一した信長は、“天下布武”という将来のビジョンを掲げる。

「上様が天下を統一なさる」

これまで苛烈で冷酷な主君に怯え、ただがむしゃらに、息せき切って戦ってきた家臣たちは、ここで自分たちの戦いに意義を得る。織田家の誰もが「これからの戦は、天下を平定するための戦だ」と理解し、そして「上様が天下布武のあかつきには、自分たちも――」との勇躍の思いにつながった。

“信長は平等に機会を与え、才覚を発揮した者を抜擢する。しかも明確な将来のビジョンを持っていた”

信長が“上司にしたい戦国武将ランキング”で常に上位に入る理由は、このあたりにあるのだろう。

信長流人材登用

信長が美濃を統一して“天下布武”のビジョンを掲げる過程で、頭角を現した人物がいる。木下藤吉郎(のち羽柴、豊臣秀吉・1537~98)だ。
秀吉は桶狭間の戦い前後には、草履取りとして信長の身近にいる。彼は家臣たちが信長に戦慄するなか、どうすれば信長に気に入られるかを懸命に考えた。

「まずは、この人を好きになることだ」

秀吉は、信長に懐こうと粉骨砕身して忠勤し、この主君を理解しようとした。彼は信長に対して単に“ヨイショ”や“ゴマすり”をしていたわけではない。父を尾張の内戦で失い、新しく現われた父とうまくいかず、家の銭をくすねて放浪生活を送り、10代から世間の荒波にもまれてきた秀吉は、他人の気心や好みを機敏に洞察する能力――コミュニケーションスキル、対人関係スキルが抜群に高かった。彼は信長が何を考え、何を欲しているかを的確に把握し、その意を酌んで自ら考え動くことができた。

しかし、信長は単純ではない。別段の依怙贔屓もしない。それでなくても、いわゆる中途採用の秀吉は他者に比べて出遅れている。並みの働きでは信長に認めてもらえない。

ようやく草履取りで、その存在を知られた秀吉は、次はおもに台所方の仕事にあたった。というより、おそらく彼には武芸の実力も武士の嗜みもなかったから、頭角を現わすには裏方しかなかったのだろう。

繰り返すが、信長は人を道具のように捉え、性能のみで考えていた。
そのことを一番理解していた家臣は、おそらく秀吉だ。

「道具として、愛用してもらおう」
秀吉は努めてそれに徹し、信長はそれを見逃さなかった。

「ふん、おもしろい」
裏方であっても業績さえあげれば評価する。できる者には、より大きな仕事を任せるのが信長流だ。

美濃攻略戦の頃に台所奉行となった秀吉は、炭や食糧の節約にはじまり、諸事倹約をおこなって成果をあげた。が、それで満足する秀吉ではない。彼には夢があった。

信長の軍兵を預かり、合戦で織田軍の一翼を担う指揮官を“部将”という。
秀吉はこの“部将”として、表舞台に立ちたかった。そこで彼は転属を願い出る。

信長は人事について、形式やルール、慣例などにはとらわれない。家臣がやりたいと言い、それまでに実績さえ示していれば機会を与えた。

そして信長は秀吉に美濃方の敵将への調略(政治的工作、寝返り)を命じる。秀吉は、持ち前のスキルを活かして信長の期待に応えた。やがて秀吉は“部将”として表舞台に踊り出る。

この2人の関係はやや特殊だが、信長にとって秀吉は、自らが見いだし、実地に育て、昇進させた人材だった。
信長というトップが存在しなければ、秀吉はそのスキルを活かされず、不平・不満を抱えたまま、その一生を終えたに違いない。(了)

※この記事は2018年4月に【日経ビジネスオンラインSpecial】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

【イラスト】:月岡エイタ

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